考えたこと

説得力のある根拠に基づく議論を読みたい。逆に言えば、そういう話をしていかないと。「あやしさ」。イメージで語られる言葉でなく。私はこれをこう考え、こう評価している、その根拠はこれこれで、という話。そこではじめて議論や評価が可能になる。 そのア…

一義化に対する多義化、無意味化、過義化。その手段としてのアート。意味を求める、という行為が、絶対的に優位なひとつの意味や視点を構築したりすることではなく、多義化することであふれていくその豊かさが、アートの鋭さや批評性、知性だと思う。そうし…

「売れないアーティスト」

不幸がアイデンティティーを基礎づけている、という視点からこれを見てみる。社会の最下層にとどまりつづけることが、逆説的に人間的な優位性を担保する。「売れないものにこそ、価値がある」。 それは、集客を見込めないのではなく、見込まないのだろうか。

結果の予測不可能性を売り物にする。

わくわくしたり、楽しい、おもしろい、すごい、のために、私はやっていたのではなかったか。あれこれ考えて、誰かを驚かせたり、驚いたりすること。わくわくは伝染し、感染する。

何が「アート」なのかを「アーティスト」が握っている状況と、「アート」をみんなが読み替えることができる(とわかっている)状況。そこでは、「正しいこと」をした人ではなく、「おもしろいこと」をした人がもっとも「的を得たこと」をしたことになるだろ…

まち

私は、個人としての人にあまり関心がないようなのだけれど、集団としての人には比較的興味があるように思う。それがつまり、「まち」なのかと思う。

わかる

「わかる」というとき、自分の内部や、文化や常識を共有する共同体や仲間うちの中での、中だから、「わかる」ということがある一方で、他人であったり、理解が共有されていないからこそ起こりうる、「わかる」とがあると思う。 何かが伝わらない、わかり合え…

自分にとって何が切実な問いか。言い換えれば、自分にとって何がいまだ経験せずにのこされているのか。 私はいったいどうすべきなのか、と、私はどうしてもこうなってしまう、とは、一対のもののように思う。 それがつながる点こそが、私の人生の目的、私は…

常に意志決定や評価の基準が「まちの人」にあるという姿勢。逆に言えば「まちの人」なる「みんな」を想定した基準。 それは「他者」という体を装った自分ではないのか。

「アーティスト」は、職業ではなくて、生き方なのだろう。そう思わざるを得ない。

みんなのため、の「みんな」とは誰なのか。というより、何がそれを可能にしているのか。それ、つまり、そんな抽象的な個人の存在を。 ではそれを具体的な個人に引きおろせばいいのか。どの程度? その納得できる純度、逆に言えば「濁度」を支えるものは何な…

現代アートの「現代」「コンテンポラリー」たるゆえんは、それが、これまでの文脈をすべて対象化し、並置されない一層上のレベルへと常に自らを位置づける運動をしつづけることにあると思う。それは線形の過去や未来に対する現代というような時間軸ではなく…

「我々」は「数字」に弱い。300人のスタッフを抱えているとか、2億5000万の予算でやったとか、入場者数が6万人だとかいう数字に弱い。何も言えないような気分になる。それほどに数字は強く、それ以上に何もなくてもいいんじゃないかというくらい説得的である…

切り取ったものより、切り取ったことでのこったものの方に関心を向けること。対象を対象として認識するということは、対象以外のものも、それ、そのようなものとして認識したということである。対象が在るためには、そのようなものが必要である。私が成立す…

シルエットを切り抜く、という表現をしていて、ふと、コミュニケーションとは、こういうものかもしれない、と思う。ある人には見えるものが別の人には見えず、ある人とはちがったものに別に人には見えてしまう。しかし、それが紙を切り抜いたものである、と…

豊かさ

何を見ても、もっとすごいものを知っている、という対し方の中では、刺激の少ないもの、「新しく」ないものは豊かでないものになってしまう。そしてより刺激的なもの・より新しいものは、さらに刺激的なもの・さらに新しいものを増大させる通過点に過ぎなく…

私が絵を描かなくなってしまったのは、私の描いていた絵画が、説明以上のものでなかったからなのだろう。 美しい絵画、のようなものを見ていると、この人たちはどうして絵を描くのだろう、もっと正確に言うと、どうして絵を描きつづける動機をもちつづけるこ…

コミュニケーション

先日、幸田露伴の何とかいうエッセイが、高校生の問題集に問題文として出ていて読んだのだけれど、文はすでにあるから書けるのであって、書くことが無い人は書けない。だから、文を書くのが下手だから書けない、というのはちょっとちがう、みたいな主旨だっ…

驚きの生産現場

まちでアートをやるに際して、人寄せであるとか、それでまちがよくなるとか、何かそういった善良なもの以上に、はるかにそれを突き抜けたところにある何かを共有できるかもしれない、という期待があるから、そこに携わっていられるのではないか。ただ単に町…

単に刺激的であるというだけのものは長続きしないし、凡庸で、パターン化してしまう。真に持続的なものは、深みをもったものであり、深みとは、意味だと思う。では意味とは、といえば、それは必然性ではないかと思う。必然性とは、この私はこうでしかありえ…

偶発性と意味づけ、という無限の運動や、意味づけと無害化という輪にたえられない、あるいはそれを嫌う「アーティスト」が、「感じたままに見てくれ」と言うのだろう。あるいは単に意味づけすることができないとか、どこかで他の人がそう言うのを見たとか。 …

私に欠けているのは、連続性をもった「私」の存在、社会的な責任をもった存在としての「私」という認識のように感じる。 私は何をしてもいいし、誰もそれをとめることはできない、という風に私はいつもどこかで感じている。だから、生きるのも死ぬのも、そう…

〜の近代、とか、そういうことを考えていると、自分のこれまでやってきた、まちとアートの浅さ、に気づかされる。 綿密な調査にもとづく何か、といったものでなかったとしても、アートとしての深みのようなもの、それをきちんと表現できているか。表現しよう…

昔はよかった、の「昔」とは、いったい何なのだろう

アート作品が、アーティストの意図をなぞるもの、というナイーブで単線的なものから、それを見る鑑賞者の視点やその者とアーティストとのかかわり、もしくは、単なる鑑賞者ではなく、その場所に住み、アーティストともっと必然的な理由でかかわるようになっ…

展覧会型・プロジェクト型Ⅲ

話が横道にそれてしまったが、そもそもの話を元に戻すと、違った社会状況、違った要請からはじまったものを、同じ視点から、同一の用語で表現すると、たいへんな齟齬が起こったり、評価すべきところを見落としてしまったりするのではないか、ということで、…

展覧会型・プロジェクト型(2)

完成度と一貫した内容を核に、多くは一方的に提示されざるを得ない展覧会型の企画と、何が起こるかわからない、極端に言えばコミュニケーション自体が目的化されたプロジェクト型の企画というふたつの類型化について、さらにそれがどのような特質を持ってい…

展覧会型・プロジェクト型①

個展やグループ展など、展覧会をつくる企画、つまり、アート作品の制作があり、ある意図でこれを集め、場を設定し(あるいはこれらが逆でもよい)、来場者を呼んでこれを見せるような従来型(といってもそれほど歴史があるわけではないようだが)の企画を「…

ウィトゲンシュタインが考えた「ゲーム」のように、関係性はすでに用意され、固定されたルールの上で動くのではなく、常に変更可能性の上で動いていくものだと思う。というより、そういう関係性にリアルさを感じるし、そうでないものには感じない。 だから、…