コミュニケーション

akadowaki2007-12-17

先日、幸田露伴の何とかいうエッセイが、高校生の問題集に問題文として出ていて読んだのだけれど、文はすでにあるから書けるのであって、書くことが無い人は書けない。だから、文を書くのが下手だから書けない、というのはちょっとちがう、みたいな主旨だった。
しかし、今日、幸田露伴的な状況は一転しているように思われる。ネット上には別に書く内容があるから書かれている文ばかりが流れているわけではなく、内容がなくても表現が成立しているゆうな状況が出現しているのではないか。それは「コミュニケーション」そのものを「内容」とするものだ、と言えるだろうか。そしてでは果たしてそれをコミュニケーションと呼ぶのか。
誤解をおそれずに言うなら、何かを共有している人の間では、コミュニケーションは「成立」しない、とすら言えるのではないか。それは何か共有されない価値なり世界観なりをもつ人どうしの間ではじめて「成立」するものなのではないだろうか。
私は、コミュニケーションにおいて、「伝わらないこと」よりも「伝わってしまうこと」の方に興味がある。