考えたこと

コミュニケーションとコミュニティの衰退

一次的な欲求と二次的、三次的欲求のようなものがあるように思う。 例えば、カラオケについていうと私はほうっておいたら、というか必要なければたぶん一生いかずにいると思う。大学四年で就職活動中(バブルの末期)にOBらにあんまり毎回連れていかれるので…

何かがおもしろいかどうかは、誰もが持ち寄れ、引き出されていくような仕組みかどうかであって、例えばそれがアートかどうかではない。

自分の内面を表現すること。そうした極私的なことが反転して公共的な問題につながっていることはままあることだし、それが例えばアートの素晴らしさでもあると思う。でも、私にとって私は、何かの場のようなもので、それ自体をどうこういうものではないよう…

町を車で走っていると、すごい中華料理屋が目に入るわけです。道路に看板(中に蛍光灯が入って光っている)が寝かせてあったり。そのすぐ近くにはビルのこっち側だけをすんごい色に塗ったタイ料理やタイマッサージやが入ったビルがある。たぶんああいうのを…

前々から気になっていた「足立区犯罪発生数1位」「足立区ひったくり1位」について、ちょっと調べてみました。資料は警視庁の「発生状況・統計」 内の数字です 警視庁では「発生状況・統計」として、平成11年からのデータを公表していますが、同ページにリ…

昨日、NHKで、北海道・沙流川のダムについての番組を見た。印象的だったのは、反対運動を行うことになる貝澤耕一さんが子どもの頃、昼間から酔っ払い、お弁当も満足に持ってこれない貧しいアイヌであることがとても嫌だった、という場面で、「ユダヤ人問題」…

「違和感」

何かを通してしかものを見ることはできないし、考えることもできない。しかもその何かがいかなるものなのかについて直接に語ることはできない。何かにたとえたり、ずれやひずみのようなものを示すことでしかそれについて語ることができない。だから、それに…

NHKで特攻についてのドキュメンタリーをやっていて、お盆でやって来ていた親戚と遅い夕食を食べながら見た。この時期にはこういうドキュメンタリーをよくやっている。以前、空襲についてやっていて、空襲は戦争では日常茶飯事なのかと思っていたら、戦争…

まちづくりとアート

「まちづくり系アート」とか「まち系アート」というくくりで、時にはおそらくは否定的な意味合いから語られる一連の取り組みがあって、私自身、その中でやっているわけだけれど、なぜそうなのかというと、私はそれが「リアルだから」だと思っている。 「まち…

私じゃない人が「赤い」とか「苦い」という意味を理解しているかどうかなんて、どうやって判別できるのか。それは簡単に言えば、みんなが「赤い」という色を指し示したり、「苦い」というものを食べたときにおんなじような反応をする、ということでわかるわ…

個人主義が極まった結果、でもやっぱり人間はひとりではいきられないからということで後戻りする場所としてのコミュニティではなく、そうした経験を経て、それでも必要とされるコミュニティとは何なのか、ということ。それは同じものでは決してないだろう。

本当はピカピカのショッピングモールがいいんだけど、お金もスキルもないから「身の丈にあった」取り組みということで集まって誰でもできそうなことを「まちづくり」と称してやっているとか、本当はみんな東大に入って医者や何かになりたいんだけどお金も能…

世界は、どんな風に見えるのか。見えうるのか。

どっちに転んでもひどいことになるような「ゲーム」があったとして、でもそれは勝ち負けが最後までわからないものにはない何かをもっているような気がする。

人を集めるための方法とか、売るためのコツとかはもちろんあるだろうし、どれほど人が来たとか、売れたというのはすごくわかりやすいし、ある種動かしがたい説得力がある。でも逆に人が来て、売れれば何かしたと本気で思えるのだろうか。人気があったり、ひ…

何か目標や目当て、ゴールがあって、それを達成する、というような行為ほどつまらないものはないと思う。目標を立てた時点でもうそれはやらなくていいのではないかと思う。それはルールの決まったゲームをやるようなもので、やる前からどうなるかなど決まっ…

自分の領土を広げていくような生き方。自分の土地のことにしか関心がなく、自分の土地を増やすこと、その価値をあげることにつながるかどうかで、すべてが判断されるような、そんな生き方。

コミュニティアートとは

コミュニティアートとは、ツールではなく、ソウルである。コミュニティアート・ふなばしの下山さんと今日、電話で話し終わった後、気づいた。私は言ってみれば何もわかっていない。コミュニティアートとは、社会をどうにかしたいという気持ち、こころざし、…

みんなが個々につくったものをひとつにするのではなく、今度はみんなでつくったひとつのものを個々に分ける。

美術作品とか、アートなるものをつくりたいからやっている、つまり「真理探求」をしているのではなく、それを通して何かを解決したり、思ってもみなかった何かを体験するためにやっている、というのが近い気がする。では何を解決するかといえば、私自身の病…

そのように考えると、価値というものが、過去の実績の蓄積によって生まれる、というような考え方ではなく、未来に向かっての有用性によって決まる、というとても好ましい内容になる。

競争をしない、というあり方

能力主義や成果主義、効率主義、競争社会の中で、競争することなく、つまり他と比べることなく、評価されたり、成果をあげたりすることはできるのだろうか。 もしかしたら、そういうことを証明したくて、やっているのかもしれない。

場所

ふるさと、居場所、ホームタウン、コミュニティ わたしのふるさと、わたしの居場所、マイホームタウン、わたしのコミュニティ、わたしのまち、わたしの住むまち、わたしがすこしでもかかわりをもったまち

自分を居心地よくしてくれるものよりも、居心地悪くするものを、自分を安心させるものよりも不安にさせるものを、歓待したい。

コミュニケーションをするのは、コミュニケーションがいかに困難かということを感じ取るためではないだろうか。むしろ何かを伝えるためなどではないのではないか。 同じように、何かを願うのは、願うことがあるということ、何かを願わなければならならいとい…

おそらく、「この私」にとってそれはどんな意味があるのか。「この私」にとってそれがどうなるのか、という視点からものをながめているがゆえに、私はいきづまっているのではないか。 「この私」を超えてものを見ようとしない限り、それはいわばモノローグで…

何かを経験するということ

何かを経験する前と後、自分の世界がどのように増えたり減ったりするのか、というのにすごく興味をもったことがある。 たとえば、これからどこかへ行くというとき、誰かに会うというとき、そこがどんなところで、それがどんな人で、どんなことが起こり、どん…

それが正しいとか、真実なのかどうかとか、そういうことが問題なのだろうか。あるいは、そうしたことを確かめることができるのかどうか。実際はそういうことが問題なのではなくて、そういう見方をすると、では世界はどう見えるのか、ということなのではない…

何かが「成立する」ということを、「売買」をモデルに考えてみる。あるいは、「わかる」(教える/教わる)。 たとえば、アートが「成立する」というとき。何かが伝わる、というとき。 ある「本質的」な何ものかが「成立」に先立って在って、まだ見えていな…

私はなぜあることをし、あることをしないのか。それは何か損得勘定のようなものなのか、それとも倫理的なことなのか。 それはものをどう見るか、見せるか、によっている。なら、それは何がどう見せているというのか。 価値は交換によって生じる、という考え…