2006-12-01から1ヶ月間の記事一覧
みんなでつくりました。ようすはこちら。
スタジオ録音 ― コンサート、ライブ アトリエ制作 ― まちとアート 商品との対話 ― 商人との対話
「AI=あい」を送る街・SENDAI=「SEND*AI」
役に立つ/立たないという対立の外にやはりその意味というのはあるのだけれど、そうした対立の中に投げ入れる、あるいは投げ入れるポーズでもとらないとどうにもならないようなだれ切ったもの。
対立とは、補完的な関係にある、あるいはそう転じうる、ということなのだと思う。
塩竈市港町にある「ビルド・フルーガス」へ、カナダのアーティスト、ソニア・アレーズさんの展示を見に行く。テキストの引用、コラージュ、ドゥローイング、ペインティングによるインスタレーション。もうその場で感じた思いは消えてしまっているので、その…
以下、転送歓迎 1, 名 称 「第2回 がんばれ!図工の時間フォーラム」 2, 日 時 2006年12月27日(水)13時30分〜17時30分 3, 場 所 せんだいメディアテーク1F オープンスクエア 4, 内 容 上映会「トントンギコギコ図工の時間」13時30分〜 報告懇談会…
「この私」とか、「私にしかわからない何か」といったものは、ひとにはわからないからこそ成立するもので、逆にわかってしまったら意味がないわけだから、それをとりあえず不問にしてみる、ということ。 それは別に「この私にしかわからないもの」などという…
「アート」はそもそも既に・常に「次世代」なので、「次世代アート」というのは屋根にさらに屋根をつぎたすようなものなのですが。
個としての表現、表現者としての個という考え方が、ともするとうまいぐあいに利用されているのではないか。 あくまで表現もしくは表現者というのは個であって、それは生活している、あるいは存在している「この私」がまぎれもなく個以外の何ものでもないとい…
個としての表現、表現者としての個という考え方が、ともするとうまいぐあいに利用されているのではないか。
なんてできないとか、できるとかいう話があるけれど、これはそういう問題の立て方自体が間違っているのではないだろうか。たぶん、できるとかできないとかいうことの外に、アートもまちもあるのではないだろうか。
と先日言われたのだが、これはどういうことなのだろう。楽しんでないように見えるのだろうか。それともそんなのホンモノのアートじゃないから、せいぜい楽しんでやればいいだろう、という意味なのか(受け手がためされる言葉だ)。
というか、もうはじめているわけですが、まち「で」アートをするのではなく、まち「と」アートをする、というところが大切で、それはたとえば場をつくるというだけでなく、観客をつくることでもある。その人たちのための、そのまちのためのアート(「ための…
たいへんうまくいきました。 といってもモノとしての作品をつくっているわけではなく、コトとしての場をつくっているので、そういう意味での大成功という意味ですが。 本当に幸せな気持ちを味わえた一日でした。
明日は塩竈・本町通り商店街の方々と進めていた「大漁旗ツリー・プロジェクト」の本制作。鳴子からは東鳴子メンバーに作曲家の大場陽子さん、美術家の越後しのさんも駆けつけてくださいます。興味のある方は制作からごいっしょにどうでしょう。朝9時からや…
アフガニスタンに取材したドキュメンタリーを撮られ、また目下新作を準備中の川崎けい子さんの新しいウェブ「アフガニスタンへの扉」で紹介していただきました(こちら)。なんと言うか、本当にありがたく、読んでいて救われるような気がしました。すこし自…
すごく楽しいオープニングでした。
横浜旭区のS邸で、S家のみなさんのためのインスタレーションを制作してきました。うまくいくかわからなかったこともあり、泊りがけでの旅行でしたが、夕飯どきにはほとんど完成し、枕を高くして眠ることができました。 活躍したのが4歳のタマちゃん。毛糸…