2007-12-01から1ヶ月間の記事一覧

常に意志決定や評価の基準が「まちの人」にあるという姿勢。逆に言えば「まちの人」なる「みんな」を想定した基準。 それは「他者」という体を装った自分ではないのか。

「アーティスト」は、職業ではなくて、生き方なのだろう。そう思わざるを得ない。

みんなのため、の「みんな」とは誰なのか。というより、何がそれを可能にしているのか。それ、つまり、そんな抽象的な個人の存在を。 ではそれを具体的な個人に引きおろせばいいのか。どの程度? その納得できる純度、逆に言えば「濁度」を支えるものは何な…

現代アートの「現代」「コンテンポラリー」たるゆえんは、それが、これまでの文脈をすべて対象化し、並置されない一層上のレベルへと常に自らを位置づける運動をしつづけることにあると思う。それは線形の過去や未来に対する現代というような時間軸ではなく…

「我々」は「数字」に弱い。300人のスタッフを抱えているとか、2億5000万の予算でやったとか、入場者数が6万人だとかいう数字に弱い。何も言えないような気分になる。それほどに数字は強く、それ以上に何もなくてもいいんじゃないかというくらい説得的である…

切り取ったものより、切り取ったことでのこったものの方に関心を向けること。対象を対象として認識するということは、対象以外のものも、それ、そのようなものとして認識したということである。対象が在るためには、そのようなものが必要である。私が成立す…

シルエットを切り抜く、という表現をしていて、ふと、コミュニケーションとは、こういうものかもしれない、と思う。ある人には見えるものが別の人には見えず、ある人とはちがったものに別に人には見えてしまう。しかし、それが紙を切り抜いたものである、と…

豊かさ

何を見ても、もっとすごいものを知っている、という対し方の中では、刺激の少ないもの、「新しく」ないものは豊かでないものになってしまう。そしてより刺激的なもの・より新しいものは、さらに刺激的なもの・さらに新しいものを増大させる通過点に過ぎなく…

私が絵を描かなくなってしまったのは、私の描いていた絵画が、説明以上のものでなかったからなのだろう。 美しい絵画、のようなものを見ていると、この人たちはどうして絵を描くのだろう、もっと正確に言うと、どうして絵を描きつづける動機をもちつづけるこ…

コミュニケーション

先日、幸田露伴の何とかいうエッセイが、高校生の問題集に問題文として出ていて読んだのだけれど、文はすでにあるから書けるのであって、書くことが無い人は書けない。だから、文を書くのが下手だから書けない、というのはちょっとちがう、みたいな主旨だっ…

アークリ〜アートなクリスマスのためのプロジェクト

村上タカシ・ディレクションによるアートなクリスマスのためのプロジェクトです。 (転載歓迎)アークリ(achri)☆☆☆☆☆ 〜アートなクリスマスのためのプロジェクト〜 2007/12/21-23 仙台市市民活動サポートセンターB1Fシアター http://blog.livedoor.jp/send…

驚きの生産現場

まちでアートをやるに際して、人寄せであるとか、それでまちがよくなるとか、何かそういった善良なもの以上に、はるかにそれを突き抜けたところにある何かを共有できるかもしれない、という期待があるから、そこに携わっていられるのではないか。ただ単に町…

単に刺激的であるというだけのものは長続きしないし、凡庸で、パターン化してしまう。真に持続的なものは、深みをもったものであり、深みとは、意味だと思う。では意味とは、といえば、それは必然性ではないかと思う。必然性とは、この私はこうでしかありえ…

偶発性と意味づけ、という無限の運動や、意味づけと無害化という輪にたえられない、あるいはそれを嫌う「アーティスト」が、「感じたままに見てくれ」と言うのだろう。あるいは単に意味づけすることができないとか、どこかで他の人がそう言うのを見たとか。 …

私に欠けているのは、連続性をもった「私」の存在、社会的な責任をもった存在としての「私」という認識のように感じる。 私は何をしてもいいし、誰もそれをとめることはできない、という風に私はいつもどこかで感じている。だから、生きるのも死ぬのも、そう…

〜の近代、とか、そういうことを考えていると、自分のこれまでやってきた、まちとアートの浅さ、に気づかされる。 綿密な調査にもとづく何か、といったものでなかったとしても、アートとしての深みのようなもの、それをきちんと表現できているか。表現しよう…

昔はよかった、の「昔」とは、いったい何なのだろう