偶発性と意味づけ、という無限の運動や、意味づけと無害化という輪にたえられない、あるいはそれを嫌う「アーティスト」が、「感じたままに見てくれ」と言うのだろう。あるいは単に意味づけすることができないとか、どこかで他の人がそう言うのを見たとか。
しかしそこに豊かな驚きをもたらしうる装置としての「意味」を用意しておくことは可能なわけであり、アートには何の関心もないまちの人が、作品の意味を問うとき、それは敏感にそのこと、いわば意味の快楽ともいうべき歓待を求めて作家にそう言うのではないかと思う。それは意味を生み出すことすら放棄している怠惰な「アーティスト」に向かって、本気でそれが何なのか、などと聞いているのではなく、それを起点にどんなおもしろい話が聞けるのか、関係が結べるのかというのであり、そういう意味で、情報化された「普通の人」の方がよりいっそう知的な快楽については貪欲なのかもしれない。