私に欠けているのは、連続性をもった「私」の存在、社会的な責任をもった存在としての「私」という認識のように感じる。
私は何をしてもいいし、誰もそれをとめることはできない、という風に私はいつもどこかで感じている。だから、生きるのも死ぬのも、そうするのも、しないのも、結局は偶然性に拠っていて、意味なんてない、と考えてきたのだと思う。
そしてそんな「底」を隠しもっていながら、ひとには意味を説いたり、時には自分でもそう思い込んだりして行動してきた。
けれど、本当にはそう思っていないから、何かあればすぐに嫌になってやめてしまうし、なかったことにしてもいっこうにかまわない気がするのだ。
「アート」は、私のこうした「気分」にとてもよく合っていた、というか、それを「解放」する意味づけを行ってくれた。だから私にとって「アート」には倫理もなければ必然性もなく、ただおもしろいかどうかだということになる。そしておもしろいかどうかの判定は、この私にゆだねられるか、時にはより多くの他人にゆだねられるかする。が、結局それも必然ではない。偶然でいっこうにかまわない、ということになる。うまくいかなければうまくいくように方法や視点の方を変えればよい、という考え方になる。
すべての根拠が、楽しいかどうか、おもしろいかどうか、になる。
規則はいつでも書き換え可能で、そこには責任も努力も歴史もない。あったとしても、楽しさを支えるための道具としてのそれであって、そこから導かれる楽しさではない。
この原因は、やはり私が、真の意味でひとにコミットできない、ひとと深く交われない、常に個として隔てられた私としてある、ということによるのではないかと思う。
私が確信をいだけるものは、ほとんどない。確信をいだいていられる時間もほとんどない。私は常にこの私とだけ対話し、その欲求を聞き、従うだけの存在だ。私以外の他者と対話し、その欲求を聞き、その間で生きていこうなどと、本当には思っていない。そんなことはできないと思っているか、したいと思っていない。
だからコミュニケーションは私にとって常にチャレンジであって、日常や当然のことではない。それは気分を高揚させてくれるとき、そうしたことだけが目的で、それを通じて本当に相手のことを知りたい、相手と責任ある関係を結びたい、などと考えてはいない。常に私以外の存在は道具であり、手段であり、目的はこの私なのだ。
そして何よりも問題は、なぜそれがいけないような気がするのかが、本当にはわからない、ということだ。