展覧会型・プロジェクト型(2)

完成度と一貫した内容を核に、多くは一方的に提示されざるを得ない展覧会型の企画と、何が起こるかわからない、極端に言えばコミュニケーション自体が目的化されたプロジェクト型の企画というふたつの類型化について、さらにそれがどのような特質を持っているかを描いてみたい。
現代美術家村上隆氏は最近の著書で、アートの目的として、「世界の美術史の文脈に足跡をのこすこと」と「心の救済」の2点をあげている。その真意はよくわからないところもあるが、展覧会型・プロジェクト型を特徴づけるのにうまくはまりそうな気がするので、これらを使ってみようと思う。
展覧会型の企画では、「世界の美術史の文脈」に参入することを目標として、あるいはそこまでいかずとも、アート関係者の世界で評価されるか否かを基準に作品制作や展覧会運営が始められ、行われているように見える一方、プロジェクト型の企画では、そこに参加する人の「心の救済」を目的に、そこから派生していったい何がいいものなのかが決定されていき、ともすると「アーティストすらいらない」という発言にすら出会うことがある。
とはいえ、それぞれ出発点が「世界の美術史(もしくはアートらしさ)」、「心の救済」であっても、逆にそれぞれがその後の到達点として向かおうとするのがそれぞれ「心の救済」や「世界の美術史(もしくはアートらしさ)」だったりするので、たいした違いはないという見方もあるのかもしれない。
近代社会は大きなひとつの規範(物語)が支配していた社会だったと言われている。そこには確固たる答えや首尾一貫した視点=世界の美術史が存在し、それを「世界」が共有することが可能だったと。
しかし、ポストモダンの社会においては、そうした価値にかわり、多様で小さな価値(物語)がフラットに共存することが求められると言われる。それを、どこか遠くのすごい話よりも、近くで実感として理解できる体験こそが大切であり、会ったこともない偉い先生もすごいけれど、近所のきっぷのいいおじさんやおかみさんも同じように(あるいはよりいっそう)評価の対象となる状況、そこでの基準は世界を説明する大きなルールではなく、今この自分にとって、それがどう意味をもつか、つまりは自分や自分のよく知っている人の心を救済するものなのかにある、という風にとらえると、プロジェクト型の企画が頻発してきたことは、ひとつの社会状況をうつしだしていると考えることができるのではないか。
もちろん、展覧会型の企画にせよ、作品の内容としては構築的・自律的な作品の展示ばかりではなく、それどころかそれこそポストモダンな社会状況を反映した双方向的な作品や終わりも始まりもなさそうな作品群を目の当たりにすることはすでに日常のことで、ただそうしたアーティストに企画が追いついていない、というのが正直なところではないか。そしてそこにゲリラ的自然発生的に頻発しているのがプロジェクト型の企画であると。(つづく)