展覧会型・プロジェクト型Ⅲ
話が横道にそれてしまったが、そもそもの話を元に戻すと、違った社会状況、違った要請からはじまったものを、同じ視点から、同一の用語で表現すると、たいへんな齟齬が起こったり、評価すべきところを見落としてしまったりするのではないか、ということで、たとえばプロジェクト型の企画を、アート展の「亜流」のようにとらえるのではなく、ネット上のブログや掲示板、mixiなどのSNSのリアル版のようにとらえてみるのはどうだろうか。
ネット上での「コミュニケーション」と同じように、小さな物語を発信するツールとしての、「うちのまちのアート・プロジェクト」。そこでは、なぜ外から持ち込まれた自律的な作家作品よりも、まちの人とのコミュニケーションやそのまちのものをいかしたり読み込んだりすることが重要なのかが、自然と理解できるのではないだろうか。
そこでのポイントは、作品のよしあしというよりは、もしかしたら、そこでやることの適切・不適切にあるのかもしれない。
以前、千葉県船橋市を拠点に活動するアートNPO「コミュニティアート・ふなばし」に呼ばれて、同県八街市にある特養老人ホームの巨大な庭に毛糸のインスタレーションを設置したことがある。3日で撤去の予定だったのだが、次の週末まではずさないでほしいとの要望を受け、撤去をコミュニティアート・ふなばしに任せることでそれを承諾し、翌週、理事長の下山浩一さんらが撤去作業を行ってくれた。
後日、その下山さんが撤去の際に感じたこと、というのを2年間にわたり2度ほど聞かされた。それは、以下のようなものである。つまり、毛糸の撤去をするすこし前に、森美術館にビル・ヴィオラのすごい映像インスタレーションを見た。その後、千葉の田舎に行って、木にぶらさがった毛糸を一本一本はずしながら、これもビル・ヴィオラもおんなじ「アート」と言っていいんだろうか、このすごいギャップは何なのか、という思いにとらわれた、という。
自分たちで呼んでおきながら「これもアートか?」というのも何なのだが、思うにそこでの下山氏の違和感は、上述の齟齬からきているのではないか。つまり、異なった論理、異なった環境に支えられたものを、直接に比較しようとしても、ほとんど意味をなさないという体験、それも皮膚感覚的なそれだったのではないか。
極端な話、すでに一部の企画は、入場者数がどうとか、見せ方がどうとか、あるいは作品のよしあしとかいった既存の当たり前の評価方法で評価できるものではなくなっているのではないか。いかに企画に関わる人々が企画を自分たちの企画としてとらえ、それを自分たちの問題としてとらえたか。つまり、いかにそれが普遍的でないもの、いかにそれが小さい物語であるか、逆に言えばいかにそれが自分たち固有の問題にのみ切り込んできて、それを除いてはまったく役に立たないどころか美的でもないし、おもしろくもないものであるか――そうしたものを見せられる方は確かにたまったものではないかもしれない。けれど、今の私にはそうしたものが一番興味があるし、そもそも見るだけ、という関わり方のつまらなさにはどうしようもない限界があること、逆に言えば見るだけでもおもしろいということの、ありあまるほどのサービス精神には、改めて驚かざるを得ない。