展覧会型・プロジェクト型①

個展やグループ展など、展覧会をつくる企画、つまり、アート作品の制作があり、ある意図でこれを集め、場を設定し(あるいはこれらが逆でもよい)、来場者を呼んでこれを見せるような従来型(といってもそれほど歴史があるわけではないようだが)の企画を「展覧会型の企画」と呼び、アーティスト(時にはそれがアーティストでなくても全く構わない)を街や里山、島や温泉などに呼び、そこにすでにある歴史やそこに住む人たちとともに何かを作りあげていき、そのプロセス自体を見せる、というか体験してもらう企画を「プロジェクト型の企画」と整理してみよう。
もちろんこのように類型化したからといって、どちらかにあてはまるというよりは、どれくらいの割合でどうなっているとか、中には両方の要素がしっかりひとつに共存しているというような例もあるだろう。その意図は、だから分類することにあるのではなく、あたかも共通言語のように使われる「コミュニケーション」や「まち」、あるいはそもそもの「アート」という語すらが、いずれの視点によるかでかなり変わってくる、ということを明らかにし、それらを自覚的に使うことで、よりおもしろく見えてくるのではないか、ということにある。
私がなぜこのようなことを考えようとしているかというと、「まち」で「コミュニケーション」を中核とした「アート」を展開していく中で、さまざまな誤解が起こっていることに気づき、そのたびにうまくそれを伝えることができないという思いがあって、もしかしたらこうした視点をもつことでそれらをうまく説明できるのではないかと考えたからだ。
おそらく、まちでアートをやるのが一般化しはじめたのは、アートだけの特殊事情によるものではない。そこにはインターネットに代表されるような、「コンテンツ志向型」というよりは「コミュニケーション志向型」のメディアが発達し、爆発的に求められている状況、それらしい言葉を使えば、ポストモダン的状況があるように思う(ここで私が使った「コンテンツ志向型メディア」「コミュニケーション志向型メディア」という用語は、東浩紀氏のアイデアによるもので、展覧会型・プロジェクト型という類型もそれを援用したものである)。
誰かが「こたえ」を握っているように見えるメディア、すなわち、出版やテレビ、CDやDVDなどに対し、インターネット上のホームページやブログ、携帯電話などは発信型のメディアであり、誰もが自分(の好みなど)を容易に「表現」でき、それらを通じて何らかの集団に関わっている、参加しているという意識をもつことを可能にしたと言える。ワープロが出始めの頃などには、「活字みたいな」ページができたことに感動した「我々」も、今では何かに容易に「参加」できること、「コミュニケーション」をもてることを求めている、というより、そうしたものをよりおもしろいと感じているのではないだろうか。あるいは私より若い世代はもっとそれを当然のことのように感じているかもしれない。「なんでこれは参加できないのか。双方向でないのか」など。
ここまで読んだだけでも、私が先にアート企画を2つに類型化した意図がすでに読み取れると思う。つまり、それらは最初からちがう「意識」をベースとしたものなのだ。すなわち、展覧会のような、さわれないし、介入もできないものを当然と意識するか、プロジェクトのように、自分にも何らかの役割が設定されているはずだと意識して対するのか、という意識のちがいである。
それらはおそらく本当に「(無)意識」のレベルのものなのではないかと思う。それらが自覚的に認識されて、「これは企画としてはどっちかな。どっちの要素が強いだろう」と見られるほどに観客はアート化されていないし、企画者、例えば私などはそうしたことを自覚的に意図することなく、ほぼ無意識のうちにプロジェクト型をやろうと決めてやってきた。だから、展覧会型を当然と考えるアーティストや企画者には、「まちの立場ばかり擁護する人」としか理解されていないだろうと思う。(つづく)