何が「アート」なのかを「アーティスト」が握っている状況と、「アート」をみんなが読み替えることができる(とわかっている)状況。そこでは、「正しいこと」をした人ではなく、「おもしろいこと」をした人がもっとも「的を得たこと」をしたことになるだろう。
「まちとアート」は、そうした「身体的な快楽」と「コミュニケーション的な快楽」の一致する「特権的な瞬間」となりうる要素をもっている。が、なっているのか?
「私」という「現実」があって、そこから出発する「アート」は私にとって誤読することはできないが、さまざまな「現実」があって、その読み替えとしての「アート」であれば、誤読するということがありうる、というようなとらえ方。
受け取り手の感性が変化していくことで、大文字の何かに「勝手に」何かを読み込んでしまうようになる状況。