わかる

akadowaki2008-01-08

「わかる」というとき、自分の内部や、文化や常識を共有する共同体や仲間うちの中での、中だから、「わかる」ということがある一方で、他人であったり、理解が共有されていないからこそ起こりうる、「わかる」とがあると思う。
何かが伝わらない、わかり合えないという言葉が本気で語られるとき、全体の状況としては前者だといいなというような希望、あるいはそもそも後者が想定されていないからこそ、そういう思いが起こるのかもしれない。ちなみに私はずっとそういう「思い」をもっていたと思う。そこでは、極端に言えば、すべてが自己の内部に存在することで問題は解決されるかもしれない。逆に言えば自己内に存在できるものがすべての存在になること。すなわち、私の好きなもの、私のわかるものこそが、私の世界のすべて。
しかし、実際にはそうはならなかった。逆に私にしかわからないものが文字通り、絶対的な価値をもつというようなこと、わからない他者が存在してこそ「わかる」私がいる、ということなんじゃないだろうかと思うようになった。
あまりわかりあえなそうな他人、他者との、あるいは単純に自分以外の他人とのコミュニケーションは、そもそも本質的にわかりあえないことが前提されている。本当には何を言っているのかわからない。そのことに重要な価値があると思うようになった。そうした関係に支えられた、この私の世界。例えばそこで「発見」されたのが、「まち」だった。
例えば、絵を描いていたりすると、もう誰にもわからなくても納得できるすごいのが描ければ満足だ、というようなことを思ったり、言いたくなるときがあったが、それは自己の内部空間で世界が完結したい、完結することがあるはずだ、ということを言っているのだと思う。
それを自己満足だとか言う批判もあると思うけれど、自己満足を自己の内部空間で世界を完結したい、やってみせる、という主張だととらえるならば、それは、いや、やっぱり人に評価してもらって作品は成立するんだ、売れなきゃ意味がない、みんなに認められたい、という主張と裏表というか、同じことだと思う。それは本質的にいずれも他者の存在を必要としている。
もし批判されるべき態度があるとしたら、それは自己のあり方が自身にとってあまりに当然のもので、それが自分の思いや主張、自分のものであるとすら自己反省されないようなあり方、すなわち、そうなっているからそうしている、といった態度のように思う。そこでは「わかる」ということがちっとも問題にならない。それは本能に従っているだけであったり、ある何かによりかかって、ある人や主張がそう言っているから、そうなっているから、私はそうするのだ、という態度である。
私が今陥っている、「まちの人がそう言っているからそうしましょう」という態度は、もしかしたらこれに近いのかもしれない。