考えたこと

都合の悪いこと

自由で平等な世の中になって、大きな問題はしだいに消えうせ、仮想敵はヒトでなくなり、しかしどうなんだろう。世の中は、自由で平等でなかったときより、自由で平等になったんだろうか。それを感じ、喜べるようになったのだろうか。 自由で平等の世の中に、…

引き受ける

引き受ける、ということ。すべてを含めて。

ポジティブ・シンキング

本当はその方がいいに決まってるんだけど、今現在そうでなく、今後もそうなりそうにもないから、それをがまんするために今の状況を「ポジティブ」に考える。というのではなく、本当にこの、これ、をおもしろいと思うかどうか、思えるかどうか。そのための力…

どう対処したらいいかわからない、というときのその感じ、リアリティ、ゆらぎ。 どう対処したらいいかわからない(ほどの)アート作品。

少し前の自分よりも、少しでも自由になれば、何か新しいものの見方をできるようになるきっかけや、あるいは何かよくなっていけるような何かを発見できれば、それをいろいろな名前のひとつ、たとえば「アート」という名前で呼んでもいいのではないか。 そして…

生きていること

息をしている、ということ

アートとは何なのか

「〜とは何か」という問いを「本質的」に語るということが、「この私」や具体的な「あなた」を離れて語ることだというなら、「本質的」の方を変えるべきなのだろうと思う。 「それが何なのか」という問いは、「それが私にとってどういう意味をもつのか」「そ…

欲望の実現

起動力

私は、自分がやりたいことをしたい。そのやりたいことというのは、では何なのか。 ひとと、何かを分かち合って、それが喜びと感じられるような自分になるためにできること。 ではいったい何をすればそうなるのか。 町内会活動とか、地域コミュニティの活動の…

何にもとづく、自信や確信、根拠がほしいのか。結局それは学歴やブランドと同じことではないのか。そんなものがなくても、この私がおもしろいと思うもの、いいと信じられるものならば、それはいいものなのではないのか。そう思えないとしたら、それはどうい…

島国

島口とは、海に取り巻かれ、他から閉じられた空間ではなく、未知に取り巻かれ、あらゆるものに対して光られた場なのだ。

自信がない、というのではなく(それもあるかもしれないが)、先の見えてしまうことへの脱力感。確信をもって何かをしていないんじゃないかという感じ。 「正しさ」の根拠、「正しさ」への信仰のなさ。 よって立つ何かが、結局は前提されず、出逢いによって…

アートはキケン

「次は何をやるのか」と聞かれたので、毛糸で大きな鳥の巣のようなものをつくり、はしごか何かをのぼって中に入るようなものを考えている、と話すと、「はしごはキケンだから、誰もが安全に中に入れるようにしたらどうか」といった感じのことを言われたので…

文化

私の考える「文化」のイメージは、もう高尚だったり、優雅だったりといったものではなくなってしまっている。それらはいわば文化の形骸化したかたち、死骸のようなものだ。弱肉強食の世の中では、自分の身を守るすべのない弱者の位置に置かれたものやひとが…

「インタラクティブ」といった言葉を使いながら、結局「見せる人/見せられる人」はそのままになっているものの多さ。 自分にはできない、という事柄について聞かされるのは、チャレンジにつながるのか、自分の世界とは関係のないことになっていくのか。 私…

アートは都市を前提にしている。アートに限らない。人がたくさんいることを前提に考えている。あまりに自然で意識されることもない。 人がいないこと、いない中で成立するコミュニケーション。都市を向かないこと。例えば、過疎の地域の人を、過疎について経…

本当におもしろいと思ってやる「不必要なこと」に、人は感動するし、集まってくる。エネルギーが生まれる。

関わる

誰かと、あるいは何かと関わる、というのは、いいことも嫌なこともすべてとかかわる、ということなのではないか。いいところだけと関わるというのはできない、というより、それを関わりをもったとは言わないのではないか。

誰にもできないような「大成功」よりも、誰にでもできるような小さな「成功」の積み重ね。どうすればうまくいくかという公式や理論よりも、どうやったかという小さな物語の集積、ストック。数値で表される「すごさ」よりも、ちょっとした思いを語る小さな言…

「証明」

そう認められてはじめてそうなるけれど、認められる前にそうであることを証明しないと認められない――何かえんえんとそういう「証明」をやっているような気がする。

「問題」

「問題」は、それをどう克服していくか、あるいはどう納得していくかに意味があるのであって、ただなくなればいいというようなものではないと思う。別の言い方をするならば、大切なのは、「問題」に対する感度や感じ方ではないかと思う。もし「問題」などな…

自我と幸せ

「私」は「他者」を前提として成立するものだというだけでなく、その成立の仕方、つまり反復する視線の照射こそが問題だ、とするならば、「幸せ」とか「成功」についてもそれがいえるのではないだろうか。つまり、他者の欲望を欲望するような状況があったと…

「リッチで新しくてブランドに満ちたまちづくり」がしたいし、それを「豊か」だと思っているけれど、実際、お金もないし、根性もないし、みんな年取ってきたしで、そういう「豊かさ」はムリだから、「今あるものを見直す」とか「スロー」とかいうのを「豊かさ…

世界の中心化

少し前に、国際教養学部に入りたい、という子どもが、国際関係風の問題をいずれかの立場に立って論述するような英作文が出るから、そうしたことがまとまって載ってる本とかないか、というので「あるんじゃない」と気軽に本屋へ行ってみて、なかなか見つから…

他者との出会いの欠如、というよりも回避。まちにとっても、アートにとっても。

文化や教育が「投資」や「保存・保全」を目的に語られる時代は終わった、という風に語ること。何かの余剰物のように語られたりしたことがあった、という風に語ること。

公共性が高く、地域に根ざしたアート、というようなものを考えてみる。一見、それはバーベキュー・パーティのようなものに思えるのではないか。しかし、極私的な問題をとことんまで扱うことで、それが公共的な、普遍的とも言えるようなものに反転する瞬間が…

アートとコミュニティ

そこに住んでいるというだけでつながる地縁的な地域コミュニティにせよ、課題解決型のテーマコミュニティにせよ、それだけを抽象的に想定すると、とても整合的で、合目的的な何かのように感じられてしまう。そうした制御された目的性や必然性にそった流れの…

それはアートだ、とか、アートではない、というとき、それが閉じられたアートを想定しているのか、開かれたそれを想定しているのか、ということが問題なのだと思う。 本質的な、アートなるものがあって、それに近いとか、それとは違うという話は、ほとんど意…

まちにとっての、「なぜアートなのか」という疑問と、アートにとっての、「なぜまちなのか」という疑問は互いに補完的なものだと思う。 まちにせよ、アートにせよ、既存の価値を前提に成立している。それを前提にしながら、それを覆していくところに運動とし…