まちにとっての、「なぜアートなのか」という疑問と、アートにとっての、「なぜまちなのか」という疑問は互いに補完的なものだと思う。
まちにせよ、アートにせよ、既存の価値を前提に成立している。それを前提にしながら、それを覆していくところに運動としてのアートやまちがある。
アートにせよ、まちにせよ、その今日性、現代性は、そうした既存の価値を覆していく運動が、ある意味、生命線ですらあるような状況にある、ということではないだろうか。立ち止まったとたんに、収縮し、単純化され、一方通行化してしまうような思いにとらわれる。地方都市や過疎地の状況は、常に足を動かしていなければ沈んでいってしまうような気持ちにする。
そこで、常に新しいこと、今までになかったことを求めなければならないような気持ちにおそわれ、それが安易に効率的なもの、よりわかりやすい評価基準へとつながってしまうのかもしれない。
しかしそこで問われている「新しさ」は、どういう種類の「新しさ」なのか。実はそれは単に同じレベルの別のものではないのか。