それはアートだ、とか、アートではない、というとき、それが閉じられたアートを想定しているのか、開かれたそれを想定しているのか、ということが問題なのだと思う。
本質的な、アートなるものがあって、それに近いとか、それとは違うという話は、ほとんど意味がないように思う。逆に、まさにそうした態度はアートではない、という話には意味があると思う。それを社会性とか公共性と言ってもいいのではないか。アートには社会性や公共性が伴っているように思う。何もそれはまちでみんなとアートをやりましょうというところに宿るものでもなければ、自分にしかわからない感覚みたいなものをつきつめていくことに宿らないというものでもない。「決定権」とか、議論する土俵といったものがどれほど用意されているか、ということではないだろうか。