世界の中心化

akadowaki2008-02-20

少し前に、国際教養学部に入りたい、という子どもが、国際関係風の問題をいずれかの立場に立って論述するような英作文が出るから、そうしたことがまとまって載ってる本とかないか、というので「あるんじゃない」と気軽に本屋へ行ってみて、なかなか見つからない、ということがあり、ふと、何か変わったのかもしれないと思った。
私が学生の頃、私が外国語大を目指していたということもあるかもしれないけれど、そうした国際関係風のことを書いたものはすごく目につくくらいに多かったように思う。海外志向というのもすごくあったような気がする。それはある意味、「まだまだ日本は…」風の風潮がすたれていなかったということだろうし、「欧米」という「他者」がはっきりと「君臨」していて、それと自己との距離を測ることで、自己の立ち位置を知るような、そんな感じがあったのではないかと思う。
地方都市にしてもそうで、私の住む仙台は「東京志向」と呼ばれ、東京という「他者」を目標にして、そこからどれだけ隔たっているかによってものさしにするような感覚があったように思う。
そして、今。おそらく日本は「欧米」という絶対的な「他者」には興味がなくなったのかもしれない。仙台は確実に、東京を目指すのはかっこ悪い、になったような気がする。そしてそれはではどのようにしてか、といえば、自己が世界の中心化することによって、という気がする(全部「気がする」「のように思う」の議論だが)。
例えば、「9.11」の折にさかんに言われたのは、「アメリカは世界のことには関心がない」ということだったように記憶している。これは、自国が世界の中心なので、周縁にはあんまり興味がない、というニュアンスで伝わったもので、しかしそうした状況が日本にも起きているのではないかと思う。もう日本は、「すぐれた外国」との比較で自己を同定する必要はなくなった。日本人にとって日本は世界の中心になった。仙台人にとっての仙台が日本の中心であるように。
しかしどうなんだろう。「優れた欧米」や「都会・東京」を想定し、それとの比較で、まだまだ遅れた日本や田舎・仙台なるものを生み出し、それによって自己を描いたり、目標を設定したりするのも卑屈な態度で、大きな問題を抱えていたと思うけれど、それを自己が世界の中心化する、という方法で「解決」してしまうことは、やはり問題ではないのだろうか。「他者」をそのようにして乗り越えていくあり方は、「他者」を「他者」として残したまま、自己を内省的にながめていくのではなく、いわば「他者」をしめだすことによって、自己を省みることをやめてしまった態度、自己をうつしだす鏡を捨て去ってしまう姿勢のように感じられる。「他者」を想定するのが問題なのではなく、その距離のとり方が問題だったのに、「他者」の存在自体が問題だったのだ、というような問題の扱い方というのだろうか。
結局、世界から「他者」が消えうせ、言葉の通じる仲間内だけの世界、中心しかない世界が広がっていく。そんなとき、周縁にとどまりつづけることは、いかにして可能なのか、というのが大事な問題のような気がする。たとえばアートにおいて。