「私」にしかわからないアートの「質」は、「この私」のようなものではないのか。
おそらくはちがう。
アートの「質」やこれに類したあらゆる「評価」について確信することは、ときや場合によって変わる可能性があるが、「この私」が「この私」であることについて確信できたりできなかったりということはありえない。
しかしなぜなのか。
「アートなるもの」を想定し、その中に閉じた世界をつくりあげること。「質」の判定が閉じられているとき、しかもしれがひとりの手に握られているとき、それは構造として「この私」に似ている。
「守護霊さまがこう言っています」というのも、ひとりしかそれを見ることができないとき、それはいったいどういう地平でものを言わんとしているのか。同じものをふたり以上が見えるとき、はじめて私たちは何かについて「話し合う」ことができる。もしひとりにしか見えず、判定できないのだとしたら、それは「宣託」とでもいうしかないのではないか。そしてそれに承服しないとき、何がその根拠になるのか。両者のより広くよって立つ場、つまり話し合うことができる裾野までおりる必要がある。
「アートの質」「この私」「守護霊」…それを宣託のように与える/与えられるという関係においてみるとき、開かれていない次元でのそれにはどんな意味があるのか。おそらくはそれに「従う」という態度があるだけではないだろうか。そしてそれは「だけ」なのか、どうか。