デカルトのコギトは「可想的な存在としての自己」と「経験的な存在としての自己」との分裂をうちにふくんでいる」(池田雄一『カントの哲学』)
私はこれを、「私」は、「私一般」と「この私」との分裂をうちにふくんでいる、という風に読んでみた。「可想的な存在としての自己」は、否定的な方法によってのみ見いだされる自己のことだそうで、すべてを疑った結果、もう疑いようもない出発点としての自己をそう呼んでいるようなのだが、それはどの「私」にも了解可能という意味で、一般的な自我の問題である。その一方、「経験的な存在としての自己」は、日常的な自我意識のことを指しているようなのだが、私には経験的に見出される自己とは、「私」は「この私」以外にありえないという特殊な感覚のことである。そしてこの「私一般」と「この私」は、同じようなものを指しているように見えて、まったくちがうものを指しているともいえるので、本当に「分裂」している。
しかし思うに、この「分裂」こそが、この「分裂」を「分裂」として認識する、できる、してしまうということが、これら「私」にかかわることがらのポイントになっているのではないか。つまり「私」は「分裂」の出発点であるとともに、「分裂」が「私」の出発点なのではないか。