本質、ぶれ

akadowaki2006-04-10

すべてが同じ型から切り取られた紙の椅子。しかしながら、どれもが異なった欠け方、傷つき方をしている椅子。何かが欠けている、ということで他と異なることが認識される、というあり方。
それは何らかの能力で他より秀でている、ということで他と異なることが認識され、個別化するのとはどうちがうのか。
そうした「個」のあり方。「ちがっているから素晴らしい」といった人間主義的な言いのネガ。毒?
実はみな同じ、でもいっこうにかまわないのではないか。なぜなら私は「この私である」というだけで十分にこの私を特殊なものだと思える。
しかしそこで問題なのは、果たして「この私」と他という問題なのか、ということではないか。「この私」以外の、他と他との間のちがいこそが、ここで、あるいはこれまで問題とされてきたことであって、私と他とのちがいなど、フツウはどうでもいいのではないか。あるいはまったく別の問題なのではないか。
何らかの能力において他より秀でている、というのでなく、それぞれがその点において以外劣っている、というとらえ方をしたとすると、それはいったい何を意味するのだろう。
神の絶対性? 神との比較?
神との比較でものを見るとは、どういうことか。
それはつまり、ある種の満ち足りた何か、正しい椅子、椅子の本質、イデアとしてのそれを想定し、そこからそれがどう劣っているか、遠のいているか、ちがっているか、へだたっているか、という点において現実のそれ、あるいは現実そのものをとらえようという姿勢であるように思う。
いわばそれは、「洞窟」の外をもとに、内をながめている(しかも外をながめることはできない。外があるかどうかもわからない)、そういった視線のある種の美しさとグロテスクさ。
そういったものを表現できないか。
しかしなぜ、そんなことをするのか。
すぐれた作品だから素晴らしいのではなく、素晴らしいからすぐれた作品であるという視線の転換。
何かと何か、たとえばイデアと現実とが一致する点があるのではなく、それは常に一致、あるいは一点であって、私たちの視線や姿勢だけがそれへのぶれとして立ち現れているというような状態、状況。だから「本質」と「ぶれ」とは同じものの別の言い方であるということ。