本質、比喩

akadowaki2006-04-11

私は「本質的」「本質」といった言葉に対する嫌悪のようなものをもっている。それはなぜなのか。
この私の手の届かないところに何かを設定されることへの嫌悪なのだろうか。
あるいはそうしたものへのあこがれとうさんくささ、裏切られたような気持ちからくる嫌悪感。
本質主義
では本質的なもの、とか本質、ということに何か価値や意味はないのだろうか。というより、実際多くの人がそれを好んで口にする場面にでくわすその言葉には、やはり何らかの重要性があるのではないか。
思うに、嫌悪するというのは、逆にそれを必要としていることからくるのではないか。
何とも思わない、というのが(もし本当にどうでもいいものだとしたら)、「正しい」接し方ではないか。
やはり私はどこか屈折したかたちで「本質」を必要としているのではないか。
しかしそれは間違っているのだろうか、つまり「本質」という考え方が。
それはある種の見方をするのに、これ以上ないほどに的確な説明を与えてくれる比喩のようなものなのではないか。それはまさに概念としての「音」のようなもので、存在するのだけれど、ある特殊な存在の仕方をしているがゆえに、ときとして我々はそれを「存在しない」のような言い方でとらえようとするのではないか。
「音」「本質」「比喩」――そこにはある「本質的」な共通性があるように思う。それをどう表現するか。「目」に見えるようにできるのか。