『アート・デザイン・都市2 六本木ヒルズ クリエーター18人の提案』

アート・デザイン・都市〈2〉六本木ヒルズ クリエーター18人の提案 (アート・デザイン・都市 Roppongi Hills pub)
を、図書館で借りて読んだ。ちょうど先週終わってしまってがっかりの鈴木島男にも登場していた壁面の数字が、宮島達男のデジタルカウンターだったことに気づいてびっくり。「クロージング・ディスカッション」の次のあたり(p158〜160)がおもしろかった。
すなわち、美術館に陳列されたアートから、路上などに設置されるいわゆるパブリック・アートのような、ある種の機能をもったスタイルへと移行すると、アートの価値も変わってくるのかという「聴衆」の質問に対し、森美術館のデヴィッド・エリオット館長が、美術作品の唯一性について述べる一方、昨今の作品が再制作可能であること(デュシャンの「泉」のような)を説明し、しかし美術館は「多大なエネルギーを費やして…劣化を防ぐべく努力していますし、そうすべきです」とこたえると、デザイナーの内田繁氏が「何の価値が下がっていくのか」と疑問を呈した。つまり、「デザインにとって、表にあるものと中にあるものは、同じ価値なんです」と。すると、森美術館副館長の南條史生氏が「デザインはそうですね。同じデザインのものが大量生産されたら、その有用性はみんなが共有してしまう、また古くなって使えなくなれば価値が落ちるというような価値の落ち方もありますよね。…だから、やはり価値と一言で言った時に、非常にいろんな問題をはらんでいるわけで、実をいうと美術品の価値をどうやって規定するかは、そう単純ではないという問題にもまた戻ってくると思うんですね」と、この質問以前に出された質問といっしょにして話をまとめてしまう。それに対する内田氏のこたえは「そうですね。僕にはあまりよくわからないんです。本当にね。デザインをやっているとね」。
もしかしたら全然ちがうかもしれないけれど、この「僕にはあまりよくわからない」は、何か「専門的」あるいは「専門外」の話を勢いよくされたときに出る、例のあの「よくわからない」ではないかと思う。ときどき、たとえば子どもたちの口からもこういう言葉を聞くのだけれど、何というのだろう、こういう言葉を吐き出させてしまう場づくりとでもいうのだろうか、そういうものに、すごく知の権力みたいなものを感じる。
内田氏の「何の価値が下がっていくのか」という問いは、たとえば、たとえがすごくわるいのだけど、ある共通な価値観を持った共同体という意味でのこの世界に対して、その外部でしか意味を持ち得ないような言葉、たとえばなぜ人を殺してはいけないのか、という問いを発するようなもので、それは問うのもおろかしいか、破廉恥か、無意味なものでしかありえず、「アートとデザイン、さらに広くファッションとか建築とか、様々なこういったクリエーションとの間に境界は果たしてあるのだろうか」(p49)という自身の投げた問いに対する南條氏のこたえは、だから、確かに在る、というものにちがいない。
しかし、おそらくは決定的に「間違っている」のだろうけれど、何かを手づかみでつかむような問いのつかみ方、リアルなそれに、私はこぎれいでよく整理された答えよりもずっと魅力を感じる。本当に、何の価値が下がっていくのだろう。あるいはそうした問いが立てられたときの世界の見方というのは、正確にはどのようなものなのか。もしかしたら「永遠の相のもとに」というのは、こういうのを言うのではないだろうか。