魁!!クロマティ高校

魁!!クロマティ高校(13) (講談社コミックス)昨日の「人間中心主義」あるいは「他者」のつづきで、ふと思いついたのが野中英次魁!!クロマティ高校』である。の子どもが数年前に教えてくれた『週刊マガジン』に今も連載中の「学園」コメディで、アニメや実写版の映画にもなったという、コアなファンのみならず人気のマンガである。
このマンガには、小池一夫風の絵や物語を外からながめてしまう構造など、いろいろ(笑いの)ポイントがあるのだけれど、「人間中心主義」あるいは「他者」とのからみで言うと、案外理詰めでものを言うと聴き入ってしまったりするワルたちに対して、圧倒的な「他者」としての役割を割り振られているのがゴリラであり、外国人(フレディ。最近あまり出てこない)の存在である。
高校にゴリラや半身裸の外国人がいるというあまりにムリな設定は、笑いという面からのみ考えられてはならない、というかおもしろくないと思う。ここで大切なのは、そうしたゴリラなり外国人が常に予定調和的に「われわれ」と理解しあうことなく、ときに思わぬ行動に出る(勝手にやくざを倒してしまったり、寿司をにぎってしまったりする)一方、おおむねは単なる理解不能な「他者」、つまりそこにただ無造作に存在するものとして現われ、それについて「われわれ」の側が「こちら側」でのみあれこれ思案したり、考えあぐねるというぐあいに事態が描かれていることだと思う。つまりそこでは常に「他者」については知りえない。あたかも人間のように、あるいは同胞のように振る舞うことがあっても、それは現象として似ている、単に見せかけの、偶然のそれに過ぎず、その行動や存在のもつ意味は実際には決定的に理解不能なまま、投げ出され、残されている。そして最近は、私の読みがあたっていれば、読者の同胞、「われわれ」としての視点を確保してきた登場人物たちすらも、「他者」として見え隠れするあやうい存在として描かれている(ゴリラと伊藤をなぜか間違ってしまう登場人物たちと、決して間違いえない読者たる「われわれ」)。
「他者」を目の前にしたとき、あるいは目の前にせずとも、常にそれを感じるとき、あるいはあえてそういう状況を設定すること。そこに現われる非日常こそが、宗教や芸術、お笑いのモチーフであるように思える。