人間中心主義

akadowaki2005-06-21

いよいよお金がなくなってきたので、とりあえず新聞やめようかなと思っているのだが、そうなるとなぜかあんまり真剣に読んでいなかったのに読み始めたり(そういうことはないでしょうか)。
今日の朝日新聞朝刊「文化総合」面の梅原猛「反時代的密語」にびっくりする。
「私は人間中心主義をとるヨーロッパの哲学者とは違って、動物にも道徳があり、その道徳の根源は親心、母心であると考えている。ときどきテレビで動物の生態が放映されるが、鷲の親鳥が命がけで獲物を捕らえると、すみやかに巣に帰り、小鳥たちに獲物を食べさせ、子鳥たちがガツガツ食べるのを親鳥が目を細めてみている姿が映し出される。その姿は人間の親が、自分が働いて得たお金でおいしいものを買ってきて子どもたちに食べさせて喜ぶ姿とほとんど変わらない。鮭は遠い海の果てから故郷の川に帰り、卵を産むと死ぬ。目を大きく開けて死んでいる鮭の姿をみると、心なしか満足げにみえる。鮭は子のためにわが身を布施したのである。動物の種族はこのような布施なくして今日まで生き永らえることはできなかったろう」(以上、引用)
名前はどこかで見たことのある人だし、1面の4分の1以上を使い、しかもカラーのすごく高そうな挿絵や、やっぱりカラーの顔写真までついているので、すごくエライ方なのだと思うのだが、「人間中心主義をとるヨーロッパの哲学者とは違って」と書き出しながら、鳥や鮭の姿を人間の姿にだぶらせて、いわばそこからのみ事態を解釈する、あまりに「人間主義的」な立場を堂々と表明してしまっているのにはあぜんとするほかない。そもそも「人間中心主義」が、神、というよりは護教論的ないわゆる宗教を中心にすえる立場に対する立場なのではないのだろうか、といったことが些細なことに思えてくるほどに、それは強烈である。
おそらくはたとえば「我思うゆえに我あり」といった言葉も、このようにしてたいへんな誤解をされているのだと思う。
別に私はあげ足をとるつもりはないので、氏の「人間中心主義」と私のとらえるそれとが大きくちがっていると考えて、氏の言いたいことを改めて考えてみよう。おそらくは氏のような考え方、私から言わせると誤解をしてしまう方は、人間は自然と対立するものではないといったこと、人間は自然の一部であり、種のひとつである、といったことを主張しようとして、その対立概念のようなものを捻出しようとした結果、「我思うゆえに我あり」といった立場をそうしたもの、「人間中心主義」として「発見」してしまうのだと思う。しかし、話はまったく逆で、自然を人間に対立させているのはそうした発想をしてしまう人の方だと私は思う。
「我思うゆえに我あり」の「我」はいわゆる人間一般という意味では決してない。この世界をそのようなものとして気づいている唯一の点としての「この私」という意識のことであり、別にそれがたまたま後づけ的に人間だっただけの話で、「この私」は鳥でも鮭でもよかったのではないかと私は考えている(すこし誤解を招く表現だが)。だからそれは強いて言えば「この私中心主義」とでもいうべきもので、「この私」を出発点にしなければ何もはじまらないことは私にはあまりに自明であって、「主義」などと改めて言うこともないほどのものだと思う。
いや、そんなことはない。まず、種としての人間や、人間という社会があってはじめて私は「この私」の存在を知ることができるのだ、と言われれば、別に私も異を唱えるつもりはない。それはすぐ前で私が「この私」について説明したことの、別の言い方であるに過ぎないと私は思う。
問題は、そうした「人間中心主義」を通してしかものを見ることはできないのに、あたかもそうでないことが可能であるかのように「人間中心主義をとる〜とはちがって」といったことを言って、やっぱり「人間中心主義的」な見方しかしないというわけのわからなさではないだろうか。
ウィトゲンシュタインは例の卓越した比喩でもって「もしライオンが人間の言葉が話せるとしても、人間にはライオンが何を言っているかまったくわからないだろう」と言っているが、私もライオンや鳥や鮭が何かを語っていたとしても、何かを言おうとしている、ということをのぞいては(あるいはそれすらも?)、何ひとつ理解することはできないと思う。そしてそれこそが、あるいはそれのみが、「人間中心主義」でない理解ということだと思う。
また、上のような誤解に基づいた「人間中心主義」に、種の保存うんぬんというのがある。生物にとっては種を保存していくのが何より大切なことなのであり、ゆえに人間も…という議論で、おそらくそうした自分たちの信じていることを「科学的」とか「普遍的」あるいは「真理」と信じている人にとっては、そうしたことが、たとえば神に対する「人間中心主義」やいわゆる「科学」よりもより上位の何らかの権威なのだろうけれども、結局はすべて同じもののちがう姿でしかない。愛する人や国家や世界や自然や生きとし生けるものすべてのために、という体裁をとった「この私中心主義」でしかないと思う。
「この私」を中心に考えるのが悪いなどと言いたいのではもちろんない。それ以外なんてないし、結局「布施」とか言っても、そういうこと、この私の外に投げ出される何かなどでは決してないと思う。
私が不思議なのは、どうして人間と同じだと思ったり、「この私」を投げ出したふりをしないと相手に対する思いやりや愛情をいだけないのだろうということだ。この調子では、人間と同じような愛をもっていなければ、神すらも悪魔にされてしまうだろう(実際そうなのではないか)。
会ったり見たこともない種や数直線状にしか語られない将来や過去なんかよりも、「この私」から、そしてそこからしか世界が開けていない「この世界」のリアリティの方が、ずっと私にとっては価値がある。何か言うためにコムズカシイ理屈や感動的なお話を持ち出しながら、自分の言いたいその主張にあわせてわけのわからないヘンな小話をむりやりはめこんでいるのを読んだり聞いたりしていると、何かすごくむずむずするし、肩がこってくる。というか、全然魅力的な議論ではない。