言語の限界

オランダからの手紙5

ときおり、言語の限界みたいなことを耳にしたり読んだりするし、私自身そういう思いがずいぶんあったけれど、どうなのだろう。
ところでそうしたことには、いくつかのレベルがあると思う(別に優劣というわけではなく)。まず、言語は正確に何かを言い表すことは本来的に不可能なのだ、みたいな言い方だけれど、私はこれはおそらく間違っていると思う。「正確に言い表す」ということからして、すでに言語によって、ということを前提しているわけで、だとすれば言語で言い表す以上、このレベルでは正確も不正確もないのではないかと思う。逆を考えれば簡単かもしれない。言語は不正確に何かを言い表すことができる、というのはすごくおかしい。
でも、おそらく言葉では正確に何かを言い表せないというときには、そういうことを言いたい人は少ないのではないだろうか。そうではなくて、たとえばひとつには、言葉にすると思わぬ誤解を生じてしまう、意図したこととちがうように受け取られてしまう、ということを言わんとしているのではないだろうか。たとえば同じ「近代国家」という言葉を、個人の基本的な権利を保障する理念のようなものとして取り上げている人に対して、近代ヨーロッパの帝国主義的な国民国家のようなものを想定し、抑圧的な現実として受けこたえしてしまっては、全然話が通じない。しかし、だからといって即言葉が不備であるというわけではなく、それは今私が説明したようにして説明すればすむ話で、言葉が一対一の対応をしていなければならないわけではないだろう。それどころか、同じ言葉が二重、三重の意味をもつ重層的な存在であることは、私にとってはたいへんな魅力に思える。それも文化や世代に応じて異なることも(ちなみに人間の脳は、同じく一対一の対応によって記憶を構成するのではないそうだ。だからどう、ということでもないが)。
あるいは、それに対応する言葉がどれもピンとこないために、言葉にすると自分の意図したこととはどこかずれてしまっているようで、だから言葉ではうまく表わせないことがある、ということも。私はかなりそういう気分が強くあったと思う。しかしこの意味での言語の限界は、言語ですらないという意味で、問題外だろう。結局、そこでは私は何を言わんとしているのか、私ですら基準がなく、ただ何かちがうことだけはわかる、などと言うのだから、それは言語ではなく、気分とかそういったものであるにちがいない。
また、言語では表現できないことがあり、ということは言語は不正確ではないが限界があり、われわれはその中でしか考えたり表現したりできないのだ、という意味で言う人もいると思う。それはすぐ前にあげたものに似ているけれど、その対応する内容について問題にしているのではなく、限界づけられているという点について何か言おうとしているわけで、ひとつには、われわれが限界づけられているということを、ただ単に認識し、それを表明しているという言い、もうひとつにはそうして限界づけられることへの不満、言語が対応しない領域があることをもって言語を不備であるとみなす気持ちであるように思う。私はずっと後者のような思いをいだいていたと思う。しかし結局のところ、言語では表現できないことがあり、しかもそれを表わす何かに何らかの外在的な基準を私が言語以外の手段で見つけたとして、それが私以外の人間にとってもそうであると、どうやってわかるのだろう。それは「在る」とは言えるかもしれないけれど、それ以上ではないだろう。というか、そのときの「在る」はこの言語形式における「在る」を表わしてはいないのであって、ということは正確にはやはり「在るような感じ」としか言えない。そしていったい、何がそこでは問題なのだろう。本当は「在る」のに、無いことになっている何かを救うため? それともやはり「在るような感じ」としか言えないものって、あるよねぇ、ということを、それ以上のことにするためだろうか。そうすることにはどんな意味があるのか。たとえば、一番の例は「この私」が「在る」という感覚だが、それを無理やり説明しても、結局、何かちがう、になるのがおちではないか。それとも問題はそんなことではなく、私がこの手の問題に全然問題を感じられないのだろうか。