いろいろな意味合い

同じことを表わす言葉が、いろいろな意味合いをもつということへの不思議な気持ち。その底にあるのは、あることはあることを表わしている、表わしていなければならない、という1対1に対応する世界観みたいなものが私の中に根強くある感じなのではないかと思う。毛糸に関連して、これまで虹や橋などの言葉についての意味合いをたずねるアンケートを行ってきたけれど、それ以外にもたとえばある日付、結びつき、子どもなどといった言葉も、ときに両極端な意味合いをもつと思う。つまり、ある日付が、ある人にとっては幸せな日を表わす一方で、ある人にとっては悲しむべき日であったり、結びつきというものが、何かよいもの、賞賛されるものである一方、めんどうだったり、ときには悲劇的であったりすること、子どもがある人にとっては輝かしい将来や繁栄を意味する一方、ある人にとっては子どもっぽさなどのマイナスの意味であったり、あるいは悲しむべき事態ややりきれない状況(子どもを失ってしまったり、子どもがいないということで社会的なある種の圧力を感じたり)を表わしていたり。
橋のような、あまりマイナスイメージのないようなものでも、個人的な体験は予想外の視点を提示する。私はテレビのドキュメンタリーで見たのだが、ユーゴ内戦のおり、ひとつの橋が、敵対するふたつの陣営にとって怨念の場となった。毎年、その橋から飛び込みをすることが慣わしであり、名誉でもあったその橋で、飛び込みの選手とそのコーチとが、敵味方になって銃を向けたり、向けられたり。橋は最後に爆破されたが、その後平和の象徴として(!)再建されることになったというところで番組は終わっていたが、その後数年して、まったく同じような話を、別の人から知人の体験として手紙で受け取った。その橋のことなのか、同じようなことがいたるところで見られたのか。そこではふたつの場所をつなぐということが、まさに限界状態として語られている。
私はずっと、そういう「物語」を語りたいと思っていたのではないかと思う。最初は、あることがあることを表わすということへの拒否として、それをやってみたけれど、それはばかばかしいほどにつまらない方法だった。とてもまだまだどうしていいのかわからないけれども、何かいい方法、というよりはいいものがつくれたらいいなと思う。