受動的・能動的

ちょっと英語でも勉強してみようかなと買って来たラジオ講座のテキストのうしろについている連載コーナーみたいなところに、「入学試験を受けた」を英語ではI took an entrance examination.というが、同じ行為を表わすのに、日本語では「受ける」という受動的な動詞をとるのに英語は"take"という能動的な動詞を使ううんぬんという文章が載っているのを読む。学生の頃、受験勉強などでよくこういうわけのわからないあやしげな「文化論」みたいなものを目にしたけれど、今もそうなのだろうか。なぜ「受ける」が受動的な動詞なんだろう。「受動的」の「受」の字がおんなじだからだろうか。私には積極的に受けるという状況に何の違和感もないし、逆にいやいや受けるという状況に関しても同じである。別に「受ける」自体に受動的なるものなんて含意されているとは思えない。そしてこれをもって筆者は「「試験を受ける」と言うと、なんとなく「自分にはコントロールできないもの」というイメージがあるが、"take an exam"になると「自分で決めたこと」という感じがあってはるかに気分がよい」のだそうだ。英語の語感についてはわからないが、私には「自分で決めて試験を受ける」という文には何の違和感もないし、逆に英語には「自分にコントロールできる試験を受ける」という含意があるのだとしたら、それはそもそも「試験」という語についての共通認識(それは自分にコントロールできないものだと私はずっと思ってきたのだが)が欠如しているのであって、「受ける」という方にはないのではないかと思う。
もちろん私が関心があるのは、このような語の使い方についての正確さなどではない。どうしてそのように思いたくなるのか、何を思わず前提してしまっているのかが問題で、おそらくはうちの塾の中学生だってすぐ感づくと思われるような、ニッポンジンは言葉からして受け身だけどその点ガイジンはちがうよーみたいな、もっとそれらしく言えば、日本語に受動的、英語に能動的という本質を割り振って、その単純な二項対立的視点で世界を一般化し、説明してしまおうとする大それた時代遅れのオリエンタリスト、むちゃくちゃな本質主義的うさんくささ、恣意性、根拠のなさ、底の浅いばかばかしさ等々にどうして気づかないのだろう。本人はまだしも、こういう「見解」を英語を学ぶすごく公共性の高い、しかもテキスト=教科書(この言葉には「受ける」とちがって「教える/教えられる」が含意されていると思う)に載せてしまうのには、どういうねらいがあるのだろう。そういうところに、すごく関心がある。どうだろう。