PLUTOと「この私」の比類なさ

浦沢直樹「PLUTO」第二巻を読む。何かをカヴァーしたり、リメイクしたり、アレンジしたり、引用したり、援用したり、本歌取りしたりというのが好きで、きっとそれもオリジナル崇拝みたいなものへの違和感からきているのだと思うけれど、それも結局「オリジナル」と言われるものあっての距離感で、この私とそれ以外の私、私とあなたみたいな関係なのだろうと思う。第一巻を読んだときほどの驚きがないのは仕方ないとして、とりあえず私もおすすめ。
ところで、第一巻を読んだときにとてもびっくりしたことを思い出した。それはロボットたちが「死んだ」ときのことで、メモリーは残っているのだし、何というか、私の常識からすれば記憶と元の設計を元に、もう一度「復元」することができるのではないかと思うのだが、マンガの世界の中ではそうした発想はどこにもなく、それは明確に、社会的に「死」として認識されていて、誰ひとりそんなことを言い出す人はいない(「死んだ」ロボットの夫のメモリーを自分のメモリーにインプットするロボットの妻はいるのに)。
思うにそれは「この私」が前提されている世界観の中で描かれたものだからではないだろうか。つまり、記憶をいくら保持していても、意識そのものの居場所が変わってしまった以上、それをそのものと同定することについて違和感をおぼえるような世界を想定して描かれているのではないだろうか。逆に言えば、私がごく当然のように感じている、記憶さえその当人のものであれば、その身体をその人と認定していいのではないかといった気分のこと。それとも「死」という経験の有無が問題なのだろうか。つまりもし死者を復活させることが可能になったとしても、死が認定されると不可逆的に死が適用されるという倫理規定でも法文化されたとか。
しかし後者のように考えてしまうと、とたんにつまらなくなる。手塚治虫の原作も読んでいないので、それが手塚の世界観なのか、浦沢のものなのかはわからないが、たとえそっくりそのままの記憶を埋め込まれ、以前と何ら変わりなくふるまうロボットがいたとしても、それは以前のそれではない、という世界のとらえ方、いわば「この私」の比類なさが当然のこととして前提されている世界、その世界のあり方を構築したという風にとらえたいと思う。そしてその一方で、そうしたこといっさいが語られずに「この私」の比類なさを相対化していく方向にいやおうなく動いていく現実世界を前にして、同じようにいっさいが語られることなく「この私」の比類なさが当然のように保持、保護されている可能世界のそのあり方が、あまりに容易に成立してしまっていることには、作品世界のナイーブさのようなものを感じる。そのへんをもっとつっこんで取り上げるとおもしろいのに。