わからない

akadowaki2005-04-12

誰かが自分に対して、(自分にとって)不当と思われるような行動(たとえばお金を払ってくれないとか)をとるので、それについて「それは不当だ(お金を払って)」と言うことは、私にはしごく当然のことだと思うし、私だけでなくほとんどの人にとってそうだろう。
しかし、それは自分にとってだけでなく、世の中のため、さらには当の不当と思われるような行動をとっている人のためにもなるのだから、という風にまでなると、私は全然そうは思わない。それはある社会的とか、道徳的とか言われる規則に寄与するだけの話で、確かにそれを常にそうしたかたちで強めていこうとすることは、ある意味生きていきやすい社会をつくることに貢献することになるのかもしれないけれど、私はほとんどそういうことには興味がない。というより、アートをつくっていたりすると、そういうことに組することは、自分の首をしめることになるのではないかとすら思うことがある。
しかしそういうことを本当に本気で言っているのに、冗談だと思われたり、冷たい人間だとか、教育や道徳に興味のない人間だと思われたりすることが多い。そこで私は先人たちにならって、あまりそういうことを表立って言わないことにしているのだが、それは冗談でもないし、教育や道徳に興味がなかったり否定的だったりするつもりもない。
逆に、そういう風に世の中に方向性があらかじめ定まっているかのようなのに、教育や道徳みたいなものがあると考える方が私には冗談ではないかと思えてしまう。何かを考えたり、行ったりする根拠のようなものがもう定まってしまっているのなら、どうして教育や道徳について関心をもったり、考えたりする必要があるのだろう。というか、定まっているのなら、どうして私はこんなに教育や道徳やその他もろもろのことについてこんなにも毎日あれこれ迷い、考えなければならないのだろう。というより何より、定まっているのなら、どうして私にはそうは思えないのだろう。
そうして私はこう思う、みたいなことを言うと、なぜか「みんながみんな自分とおんなじだと思わない方がいいと思う」みたいな返答が返ってきたりする。しかしこれはいったいどういうことなのだろう。まさにそういうことが言いたくて「私は」こう思うと正しく伝えているのに。ますますわからない。
しかしもしかしたら、返答があるだけまだいいのかもしれない。そんなことを言うということ自体が間違っているのだ、みたいなもうほとんど理解不能なことを言うような人がそばにいないだけいいのかもしれない。