オーストラリア-日本の美術教育交流展「刻まれた記憶――詩と風景の版画」

境内アートin苗市

宮城教育大学サテライトギャラリー・プロジェクト オーストラリア-日本の美術教育交流展「刻まれた記憶――詩と風景の版画」を見に行く。
オープニングということで、出展者のオーストラリアはニュー・キャッスル大のパトリシア・ウィルソン=アダムス氏と宮城教育大の高山登氏によるギャラリー・トークがあり、両氏の作品についての説明が聞けるとともに、スライドで、会場には出展されていなかったウィルソン=アダム氏の作品、特に13メートルにおよぶインスタレーション作品を見られたのがたいへんよかった。
それはプラトンの洞窟の比喩をモチーフにした作品で、インスタレーションと氏が呼んでいる版画とドローイング、写真による平面作品である。向かって左手が洞窟の中、右手が洞窟の外というシンメトリーな構図になっていて、左右の大きな正方形のドローイングから出た三角形の先端が、中央のとても小さな一点でまじわる。そしてその点には自身の少女時代の写真が置かれている。そうした大きな印象を支えているのが小さな正方形のエッチングが縦に並んだもの、大きな正方形のドローイング、そしてまた小さな正方形の写真が縦にならんだもの、そして三角形に並んだ枯れ枝のドローイングといったディテールで、私はそのプラトン解釈がとても気に入った。それは私にはこんな風に聞こえたのだ。つまり、プラトンの言うように私たちは洞窟の中に生まれ住んでいるのではない。私たちは洞窟の中でも、日の光のあまりにまぶしい場所でもない、第三の場所に生まれいでる。そしてその両方に引き裂かれて生きる存在なのだ、と。そんな風に聞こえたのだ。
そしてもっと言うなら、日の光に目を焼かれそうな洞窟の外に連れ出されなければならない必要もなければ、洞窟の中で満足しているわけでもない。そもそも必ずみんなが左から右へ進まなければならないわけでもないのではないか。別に光あるところへ向かおうと呼びかけたり、願ったりすることが間違っているとかおかしいとか言うのではなく(むろんその方が結果としていいことが多いのだろうし)。それにもしかして日の光の中に出るということ自体が、プラトン的な世界(結局は自分にとってよいことをしないことがよいことなのだ、みたいな)の崩壊そのものを招くかもしれないのに、とか。
質問コーナーがあったので氏にその点(なんで真ん中に少女のときの氏を配置しているのか)をたずねると、その写真は「まぶしい!」と日に手をかざしているもので、オーストラリアのものすごい田舎に住んでいた自分にとって、月に一度の町への買出しはとてもまぶしいものに思えたことがモチーフになっているとのこと。氏の作品は一貫して「喪失感」をテーマにしているので、少女生活における喪失感を描いたものだったのかもしれない。田舎の日常から町という非日常への移行というわくわくする気持ち。年をとれば日常の範囲は飛躍的に拡大してしまって、そこから見えていた非日常は喪失されるしかない。それがいいとかわるいとかいうことでなく。ただ必然的に。
何というのだろう。たとえばプラトンについての「正確な」解釈とかそういったもののおもしろさもあるのだろうけれど、文化的な共通項みたいなもの、たとえばもっと別な例でいえば、虹についてどんなイメージをもっているかとか、我思うゆえに我ありの「我」っていったい誰のことだと思うかといったことをベースに、私はあなたと話をすることができる。そうした喜びみたいなものを、私はすごく感じたい。それはいつかどこかで私の中に降り積もったもので、何かにふれて考えたり、考え直したりしていることで、その同じことについてひとも何かを思ったりしている(それも別に「正確」とか「正当」とか言う権威でもってでなく)ことにふれること。それにはしごや橋をかけること。そうしたことが、最近とても楽しい。たとえば何とか展みたいなものにはテーマが決まっていて、それに沿って出展することが求められたりするけれど、私にとってのそうしたもの、琴線にふれるようなものをテーマとしているものに出会えたら、とてもおもしろいだろうと思う。