神を信じているか

うちに住んでいる悪魔

神を信じているかと言えば、私は最近、自分が信じているということに気づいた、あるいは信じていると言わざるをえない気がする。
それは、信仰/不信仰といった仕方でのそれではなく、たとえば世界が存在するということ、つまり、世界がいかにそうあるかではなく、現に在るというそのことを、それをすべてのはじまりとして前提することで日々生活を送り、何の疑いももっていないというそのことは、まさに神を前提しているという意味で、私は神を信じていると言わざるをえないのではないかと思う。
たとえば、意識って何だろう、何かを認識したり、考えたり、私が私とわかるというのはどういうことだろうといったことに興味をもって、脳について学ぶ、というのは私には何というか、間違っているとまでは言えないまでも、適切な方法ではないのではないかと思う。いくら脳について調べても、私が私として存在する、という事実を説明することはできないだろう。それはいくら世界について膨大な知識を積み重ね、世界がどのようなものであるかについてあますところなく書かれた本(というかデータベースみたいなもの)をつくりあげたとしても、ではなぜそれらいっさいが存在しているのかについては全然説明できないのと同じことで、それは神についても言える。
神を絶対者として前提し、それに抵触しないようにしてあれこれとその属性とか何とかについて説明していくという話は、私にはすこし前(あるいは今も?)の天皇や皇室の話みたいで、全然魅力を感じられなかった。それはおそらく私の方にも多くの問題があったわけだけれど、とりあえずもうこたえがあって、それにしたがって問題を解いていくみたいな姿勢はばかばかしくてやっていられないというのは、何も私に限ったことではないだろう。というか、私は神についての議論を、そのようなものとしか考えていなかったということである。そして実際、ほとんどの議論はそういうものなのではないだろうか(あんまり読んだこともないのであてずっぽうな発言だけれど)。
しかし絶対者を前提してこたえを導き出す(すでにある模範解答を見ながらそれにあわせて自分のこたえをつくる)のではなく、どうしてもやっていくとそうしたこたえにたどりついてしまう、つまり存在の始原、確実性の開かれる場所、説明や言葉のはじまるところ(あるいはそれ以前)をあらわすものとしての何か、つまりは神の名や、それにかわるもの、たとえば偶然とかいった名をあげることは、ほとんど必然ですらあるのではないか。語りえないものを神秘的なものにすりかえるという意味では決してなく。
私は私がなぜか私であるということを知っている。別にそれが今そこに宿っている門脇篤という名前の人間でなくてもよかったわけだし、今この瞬間でなくともいいような気がする。つまり、そうでない世界を思い描くことができる。しかしそのそうでない世界は「本当」に思い描くことができるのか。それはほかでもないこの私を、だれかほかにたくさんある「私」と同等のものに落とすことで思い描くことができると思い込んでいる何かちがうものではないか。そうした下落(あるいは上昇)によって、私は常に私の生活を前提されたものとして苦もなく送っている。その底にある確信はどこから来るものなのだろう。私がこの私であるということに何の不都合も感じることなく過ごせるのはなぜか。
おそらく私はだから、神を信じているのだと思う。