手紙、日記

akadowaki2005-03-18

1冊の本になるというので、今月からこの「はてなダイアリー」に日記を書くことにしたのだが、ということはこれまで書いた日記もここにうつせばいいんだと思い当たり、過去の日記を読み返してみると、その内容があまりにひどくてあきれてしまう。というか、日記と称してこうしたものを書くというのは、どういうことなのだろう。
増山士郎氏の「10年プロジェクト」というのに参加しようと、先日今現在の私についてのプロフィールや10年後の自分にあてた手紙を作成したのだが、そういったことをしていて、なぜそういうことがそれほど不自然でないのか、逆に意味がある、おもしろそうだと思うのかといえば、それが10年後の私という、他者とはいえずとも、「今この私」からすればほとんど他人みたいなものに思える人(少なくとも私にはそう感じられる)に向けたものだからではないだろうかと思った。逆に言えば、今この瞬間ここにいるこの私に見せるために書くプロフィールや手紙といったものは、考えられないことはないにせよ、無意味なこと、奇妙なことだろう。
ところでしかし日記というのは、実はそういうものではないか。少なくとも、今現在行われているような日記のスタイル、未来のある時点で私が読み返すことを想定した手紙のようなものでなく、ただ、今この私が思うことを書き流していく文の集積は、今ここにいる私の自覚やそれへの意識のための意識されない支えのようなもののように思える。だからそれが過去のものになって読み返しても、ひどいなぁぐらいでたいして奇妙なものでもないし、意味がある、などとも思えない。意味があるとすれば、それを今この私が読むことで、それに対してどう感じるか、どう距離感をもったりするかという、やはり「今ここ」に関することだろう(たとえば、過去の日記に今の私がコメントする、とか)。