言葉という道具

akadowaki2005-03-17

言葉をただ発する、ということはありえないだろう。必ずそこにはそれを発する文脈や意図といったものがあるわけで、もちろんそれがそれを発したときには自覚的でなく、後づけ的にとらえなおされたものであるにせよ、いずれもそれが発せられる平面の上にのみ位置をしめうるものであって、いっさいの文脈や意図やその他もろもろから自由な言葉、などといったものは想像もできない。そして想像もできないと書いたが、しかしそのような書き方によってそれを表現することはできる(存在しないのに)。
ところで、こうした文脈から、言葉を「何かを表わすための道具」と言ったりするのだと思うのだけれど、「道具」というのはあくまで比喩的なもので、もしそうだというのなら、「道具」というもとの言葉の意味が変わってしまうほどに、それは変化自在な存在である。
ある目的をもった道具も、別の用途に使えるように、また何の目的もないもの、自然物を、ある目的にしようできるように、そしてそれは次々に姿を変えていくように、新しい発見があるように、そもそもとか、目的にかなったとか、完全とか不完全とか、意味があるとかないとか、そういったことがむなしく聞こえるほどに、それは姿のない存在、確定することをこばむあり方である。