タマニカイ2

暗くなってから、仙台市青葉区御霊屋(おたまや)にあるtaigart.com webタノタイガ・斉藤道有(斉藤氏は昨年9/11より、仙台の目抜き通りの交差点、横断歩道上に、ピースマークを1年間チョークで描きつづけるという作品を制作している)両氏の住居兼アトリエ(道場?)で行われている「タマニカイ」を見に行く。
かなり交通量の多い、しかも狭い道路に面したアパートの窓、斉藤氏の住む103号室の窓にはられたスクリーンに両氏の映像作品が映し出され、寒さに耐えられなくなると、タノタイガ氏の101号室であたたまり、今度は中から通りを行く人や車をながめるというもので、3/9を記念して全国各地で行われている「サンキュー・アートの日」(企画:開発好明)への参加企画である。
斉藤氏の映像作品は、スクリーンごしに繰り広げられる男女のムードある映像、タノタイガ氏のが携帯電話のカメラで撮ったというスーパーの広告の断片が次々に映し出されるもので、おそらくはだいたいの雰囲気がわかると立ち去られてしまうような内容ではある。そして私は最近、あるいはすこし前から、いろいろなところで鑑賞に限らずそういう態度がすごく気になる。
たとえばタノタイガ氏の映像作品が、広告の断片が次々に映し出されるものだということに気づくには、1分もかからないと思う。しかしそれをただそのようなものがつづくだけだと理解することは、何というか別にいいとかわるいとかいうことではないけれど、とりあえず「もったいない」ような気がする。確かにそのただ延々とつづく広告の断片をながめつづけることには、ある種の特別な興味と忍耐力が必要かもしれないが、それはほかの多くの何らかの努力を要するものと同じもので、そうして3回分ほどながめつづけているうちに私はこの広告の断片に、自分がある種の寂寥感のようなものを感じていくのに気づいた。流れて行く車の列、ときおり通る人影、そして突然それがとだえ、また何ごともなかったかのようにそれが繰り返される。その背景として浮かんでは消えるその映像は、広告でありながら、その目的たる商品そのもののようすやその名、表示価格は断片的に切り取られ、むなしく行き場のないその身をしかし延々とさらしつづける。その「無意味」さは、交錯しない無数の視線を乗せて走る車やバスとあまりに親しい。
すぐれたアート作品は、何かの隠喩であるように思う。というか、何かをうまく表わしたものがすぐれたアート作品である(当たり前のことであるが)。それは作者の意図などというものを離れ、くみつくせない物語を提示してくる。そうした意味でも、私は署名が刻印された伝統的な絵画作品のようなものよりも、作者自身が「名も無い」物語の出演者の一部であるような位置へとひきづりおろされている、あるいはその可能性をもった世界観、枠組みのようなものに、希望やおもしろみを感じる。そしてそれは逆に言えば、こういうことを言うからには、私は作者は鑑賞者一般よりも一段上(何においてかわからないが)だということを前提しているということなのだけれど。作者が鑑賞者の位置に立つこと、そして何より逆に鑑賞者が作者の位置に立つこと、そうしたことを許す、あるいは強いる作品に、私はとてもはっとする。