わからない

「わからない」にはふたとおり、というか二段階あると思う。それが何だかわからない、というのと、それにどんな意味があるのかわからない、ということ。「AはBである」ということがわかったとして、しかしそれにどんな意味があるのかわからない、ということはよくある話だし、その「わからなさ」は手ざわりがちがう。
たとえば、現代美術はわかりにくい、ということが言われる。私は長い間、これは「わからなさ」で言えば先に上げたもののうちの前者、つまりそれが何であるかわからない、というたぐいのわからなさのことを指しているのだと思ってきた。そして今、私なりにそれと取り組んでいるつもりだが、後者、それがわかったとしてどんな意味があるのかとか、あるいはもっと端的に言えば何の役にたつのか、といった問いについては、それは自分の考えることではないとように思えて、正直真剣に考えたことがない。というより、そんなことわかるわけないだろう、というのが本当のところだろう。どうしてもそこをわかりたい、という人にはテキトーな話をでっちあげてわかったつもりになってもらうしかないように思う。たぶんそれを私はこれまで「物語」と呼んで嫌悪してきたのだ。
ところで、この「わからなさ」という点について、「わからない」と判定を下す側ではなく、「わからない」とされた側にそくしてこれをながめてみたい。おそらく「わからない」と判定を下す側からすれば、「わからなさ」を提出する者自体は、自分のその「わからなさ」について、「わかっている」と想定しているのではないだろうか。ただしその者は自分にしかわからない言語を話しているので、「われわれ」にはわからないのだ、というぐあいに。
しかし私はこれは大きな見当ちがいであると思う。「私的言語」はありえない、その人にしかわからないものは禁止されるべきだ、とかいった次元でそれが否定されるのではなく、それはただ単純にありえない。そうではなくて、もしある者が、他の人たちにわからないことを伝えようとしているとき、それは当人にとっても同様にわからないもの、つまり伝えるのが最初から不可能なものをつかんでいるかもしれない。
そしてもっと言うなら、そのような「わからなさ」を根拠に、それが「無意味」であるとまで言うことの傲慢さや不誠実さ。逆に言うならば、わかりやすく、すでにはじまりからして終わりの予想できる予定調和的な世界(つまり私から言わせればそれこそやってもやらなくても結果がわかっているという意味で「無意味」なこと)に「意味」を見出してしまうおろかしさや卑小さ。そういうものに出会うと、どうして自分の想像の及ばない世界が、誰もまだ気づかないことが、この世界にはあるかもしれないと思ってみることもしないのだろうとがっかりしてしまう。
私の人生は本当にいつも風に吹かれる雲のようで、いったいこの先どうなるかなんて予想もつかない。ものすごく一生懸命やっていることも、何でやっているのかなんて自分では想像もできない。でもやっているし、何よりやりたい。そんなことがわんさかある。人間は世界の複雑さに対して、あまりに愚か過ぎるから、わからないことを偶然と呼ぶのだ、とまで言う気はないけれども、わからない未来を、わからないものを、そのわからなさゆえに、わからないまま。