この石

せんだいアートアニュアル2002

先週、石を拾いに行ったときの写真ができる(こちら)。
去年から、川で拾った石をテンペラで描くということをつづけてきた(絵はこちら)。そしてそれらを、石とともに展示するということもした(こちら)。そうして描いたり展示したりしながら、なぜ自分はこういうものを描いたり見せたりするのだろうとずっと思ってきた。それは、こういうことにはどんな意味があるのか、つまりこうしたことをすることには意味がないのではないかと思う自分が、常に一方にはいるからである。そして、ということはもう一方には、自分が何をしているのかははっきりとはわからないが、とにかくこれを描き、展示したいと思う私がいる。
いつものように石を拾いながら、そうしたことがひとつの意味=物語をもったのが、つい先週のことである。それは同じように私が昨年からとりつかれたように考えてきた”「この」私”ということとかかわっている。というよりも、このふたつはまったく同じことなのだ。
河原にはそれこそ数え切れないほどの数の石が転がっている。そのどれもが美しい。私はその中からいくつかを選ぶ。選んだ中のいくつかを描き、いくつかは描かずにアトリエに置かれている。
たとえば、毎日話しかけていれば、私はそのうちそれらの石とコミュニケートすることもできるだろう。そしてその石のどれかひとつが、ひとにもらわれていったり、いっしょに暮らせなくなってしまったら、とても悲しむだろう。それは猫であろうと、ひとであろうとかわらない。あるいは逆にそれを、「私は自分が関わる人の幸せを願い、それらの人々が不幸であるとすれば、とても悲しい気分になるだろう。それは猫であろうと、石であろうとかわらない」と言った方がわかりやすいだろうか。
問題なのは、私や人や猫や石ではなく、「この」私や「この」人や「この」猫、「この」石というときの、「この」なのだ。私は何も限定されず、自分と接点をもたないものに関して無責任な態度をとってもかまわないとか、その逆に自分と関わるものにはいやおうなく責任が生じてしまう、というようなことを言っているのではない。
それは何も特別なことでも、特異なことでもなく、ありふれたこと、当たり前のことだろう。私は自分が何か自分を取り巻く共同体によって生かされており、その関係に対して責任を感じたり、温かさを感じたりということを言っているのではない。その逆だってありうるのだ。つまり温かさへの反発や、共同体というものに属してしまうことへの嫌悪感等。私が言いたいのは、そうしたものすべてをひっくるめて、「この」それ、「この」なになにがもつ関係性、その切れ目のなさであり、柔軟性であり、強固さ、しつこさ、したたかさ、温かさ、冷たさ、厳しさ、つまりはそれを離れてはどんな議論も私的言語に過ぎないようなもの、うんざりするほどアナログで具体的で、一方でどこまでもびっくりするほどに創造力に富んだもの、すべての関係性のもとであり、すべての思考のはじまりである「この」なになにについて。
そんな中で、もっとも強烈で切実なのが、「この」私に他ならない。そこを離れて何かを考えるなど、もうほとんど捏造以外のなにものでもないように思えてしまう。
そうした意味で、私のつくるもの、私が興味をもつものには、過剰なほどに「この」が隠れているのかもしれない。それは独我論的な世界観、「世界とは私の世界である」ということを表層的に受け止め、「この」私を特別視することとはまったく似て非なるもの、ほとんど正反対のものだ。