これが本当に意味野あることなのか

これまでずっと私は、「私」のうちで完結している(ように見える)ものをつくろうと思ってやってきたと思う。たとえば絵画はそういうものだろう。それは確かに、題材であるとか、見てもらうとかいう点で、他者の介在を許すものではあるけれど、いやならいやでOK、はいおしまい、という、ある意味では厳しさが、またある意味では気楽さがあるように思う。気楽さというのは、気乗りしない「他者」を巻き込む必要や心配がないということで、その絵を描くことが私にとってどうして必要なのか、どうしてそれをおもしろいと思うのかを「他者」に対して説得する必要は、原理的にないということ。すべての根拠が「私がそう感じるから」という独我論的な世界の中で処理され、わからない人を「わからない人」にしてしまい、結局は「私」を共有する世界で生きる快適さ、都合のよさを、孤高と取り違えてしまうこと。理解してもらうことは、相手や自分のうちにある「他者性」を葬り去り、「みんな同じ人間なのだ」というまやかしへと進む道ではなく、「わからなさ」という棘を抱いたまま、ともにそこにいることだろう。
そうした意味で、私は「これが本当に意味のあることなのか」というたぐいの自問をさけてきたのだと思う(むろん私がここで言いたいのは、有意味/無意味という区分けについてではない)。これは私にとって、そうした意味でとてもいい機会だと思う。