都と市

『OFF DAY』という仙台で配布中のフリーペーパーを読んでいると、サンモール一番町商店街の理事長伊勢文雄氏の談話が載っていてた。「都市」の「都」を文化、「市」を商いと解し、現状が「市」に偏っていること、「都」「市」いずれもが発展することで、住みがいのある街づくりをしていきたいという内容のもので、そこにあげられている「都・市」あるいは「都-市」、「都/市」という物語にとてもひかれた。
私はそのサンモール一番町商店街で行われるアート展に、透明で、なんの変哲もないビニールの袋に入れて、その店、その場所に関連のある物と文章とを展示する、という企画を考えているのだが、それはまさに商いの対象である商品と、それを「文化化」するコードとしての言葉との同居と言えるのではないだろうか。そして逆に、言葉はものと出会うことで、そこから生命を受け取るだろう。しかもそれはまさに都市というものが強力にもつ、ある部分は取りかえ可能で、ある部分は取りかえ不能な、そしてその境界線は線ではなく、色の帯のような、たとえば虹における隣あわせの色のような関係として示されるような、「入れ物」としての空間。それは私が石とその絵によって取り組もうとしていることにもつながるものなのだが、たとえばひとつのボタンやパスタは、多くのボタンやパスタのひとつであるけれども、今ここにこうしてあるそれは、まさに「この」それでしかありえない。つまり私がたとえばある懇意にしているスパゲティ店に出向き、そこのパスタと私の文章とをひとつの袋に同居させたいというとき、それは毎日売買され、ゆであげられ、消費していくたくさんあるほかのパスタを表象しつつ、しかし「この」パスタであるとともに、しかし一方では私がどこかで適当に買って来たものであっても、ある意味「いっこうに構わない」と言いたくなる。何かと何かが等価値であると仮定されるだけでなく、それが仮定に過ぎないことをどこかで忘れ、押し流され、それを自ら流れている、と感じたくなるような感覚。
私はいろいろな人、いろいろな場所と共同でそうしたひとつの袋をつくりあげ、今度はそれを無限にコピーすることができる。それらを小さな箱にでも入れ、所有し、保存し、運搬し、管理し、付け足していくこともできる。あるいはそのように思い込むことができる。そしてそれを何か都市的なライフ・スタイルなどと呼んでしまうこともできるだろう。
夜、「トルバドゥール」で非常にうまいスパゲティを食べながら、七夕の企画のことを話し、入口のところに私の作品を展示してもらえることに。ロジアートの会場区域ではではないのだが、私はこの企画を進めながら、私にとっての生活圏内、共同体内部、つまり私の私的言語が通じそうになる場所と、明らかにそうでない部分とで企画を行いたいと思いはじめている。
たとえばこの店は、私がすでに10年以上も前から通っている店ではあるけれど、しかしマスターと特に親密なわけでもなく、適当な距離をおきつつ、静かに通い続けてきた場所で、今回ほとんどはじめて長い言葉をかわしたようなものだ。だから私とマスターとの間に具体的な共通の言語はない。そしてマスターは私の企画(言葉)は「わからない」と率直に言う。しかしそれでも私のことは「わかる」と言い、やってくれて構わないと言う。このふたつの同じ言葉の自覚的な使用(そしてそれは、われわれが日々生活の中で何ということなく、力強く行っていることだろう)。