願うこと

サンモール一番町にて

ロジアート」について考えながら、その発端になった物語について思う。私がよく石を拾いに行く川には、コーヒー豆店の焙煎所があって、川の流れと同じように、そして私が拾った石と同じように、焙煎された豆は毎日、下流にある街へと運ばれていく…というイメージで、それは私が何かをする理由にはなれ、同じようにしてひとが私のつくったものを理解する手がかりにはならないだろう。それは比喩的に言えば「私的言語」とでもいうべきもので、それを私は「無い」とは言うつもりはないけれど、文字通り私的な意味以上の意味をもたないという点では無意味である、という意見に賛成する。つまりそれを語られた他者にとっては、端的に言ってわかりにくいし、つまらない。そうした意味で、私はいったんこの私的な物語を封印し、「流れ」「願い」といった中でこの話をつむいでいこうと思う。
ところで、「願う」ということは、認識のあり方をずらすことにつながっている。何かを願うとき、そこにはすでに「こう」ある世界と、もしかしたら「こう」ではない世界とが、同時に想定されている。つまり、「〜とは〜である」というのではなく、「「〜とは〜である」ということになっているが、そうでないことを想像することができ、なおかつ私はそれを望んでいる」ということだ。
「我思うゆえに我あり」を表層的に援用するなら、「我願うゆえに我あり」ということができるだろう。そしてそれは「我思う」を根拠に都合よく大量生産されていく独我論的世界を拡大再生産していくことに過ぎない。
私が思うこと、私が願うこと、それが他者との間に投げ出されることが必要なのだと思う。投げ出されたその瞬間、「私」にしかわからない私的な物語や世界は消えうせてしまい、そうでないもの、つまりは存在が現れる。