言葉と物

akadowaki2003-06-02

中学か、それくらいのとき、NHKで国語の授業をやっていて、学校の先生ではない人の授業が聴きたかったので聴いてみたのだが、その日は言葉と物についてがテーマだった。ラジオの向こうで先生は、「ではものの名前をいっさいアタマの中から消し去って、あたりのものを眺めてください」と言って1分間ほど消えた。「どうです? ものの名前がないとき、つまりそれらを「それ」とすら言うことができないとき、私たちはそれとの間で、何とも不思議な関係に置かれるのです」とか何とか説明がつづき、私はそのとき先生が語ったとっても的を得た表現でその状況を説明することは今でもできないのだが、とにかくとても感銘を受け、ときどきそれをやってみたり、ときには友だちや、大きくなってこどもに教えるようになってからは生徒にも、同じことをさせてみた。しかしおそらく私の説明が悪いのだろう、ほとんどの人は私の言うことをわかってはくれず、しかしときおりこれと同じようなちがう表現を読むと、ああこれだ、と思い当たったりしてきた。
私たちは言葉を話す。あやつる、という表現の方が言いえて妙というものだろうか。むろんこれは人間が他の生きものよりも優れているという物語の根拠にもなったりするのだが、そうしたばかばかしい話は別にして、とりあえず、私たちは、私たちが言うところの言葉を話し、ときには「その中に生きている(住まう)」とすら言う(あたかもその外には荒野しかないかのように)。この表現は実に魅力的だ。たとえば私はときおり、「言葉が言葉をつむぎだす」といった感覚に、みずからうち震えるときがある。つまり私の語る言葉が、いわば私を超えて何かを生み出すのだ。そうしたときには、私はこの言葉を、大地や空のように感じたり、あたたかで安らげる家のように思えることがある。
しかし一方で、例のラジオの先生が仕向けたように、私の頭から言葉を消し去ったような状態、つまり「もの」が言葉を介さずに私の中にのりこんでくることがある。どういったらいいだろう。カンディンスキー(それともクレー?)があるときモネの積み藁の絵を見て、それが「何なのか」をまったくわからずに感動した、という話を聞いたことがある。むろんある人から言わせれば、それはフランスの豊かさというモチーフであり、日のうつろいであり、何とか分割によるこれまでにはない光の芸術で、という物語があるわけだが、そしてもちろんそうした説得力ある物語を私は否定したいと言うのではないのだが、それそのものが発する否応なき存在のオーラのようなもの、そうしたものは、言葉を頭から消し去ったところでどうということはない。むしろその方がよく鑑賞できるくらいではないかと思う(そしてそれは人間以外の動物がそれぞれ比喩的な意味での「言葉」を「あやつる」のとつながっているし、私はそれが容易に想像できる)。
私はこれらのいずれからも強い感動を受けるし、さらにもっと多くの感覚器官や受動装置を活性化できないかと思っている(たとえばにおいや、文字をもたない言語、その逆など)。