昨日、NHKで、北海道・沙流川のダムについての番組を見た。印象的だったのは、反対運動を行うことになる貝澤耕一さんが子どもの頃、昼間から酔っ払い、お弁当も満足に持ってこれない貧しいアイヌであることがとても嫌だった、という場面で、「ユダヤ人問題」とか「足立区」とすごく似たものを感じた
昼間から酒を飲み、お弁当を持ってこれないくらい貧しかったのは、実際には、狩猟民族であるアイヌに農業を強いるという明治政府による制度的欠陥が招いたものなのだが、おそらくはアイヌの「民族的本性」のようなものに還元されて語られたのではないかと思う。そういう「民族」なのだ、というように。
あたかも、そういう「本質」や「本性」をもった集団が存在し、決してその集団はそこから抜け出すことができないかのように想定させる力が存在する。そもそも「そこ」からして捏造された何ものかなので抜け出すことはできない。しかしいったい何の目的でそうした力が存在するのだろう。
例えば、「足立区民族」という言葉をツイッター上で目にしてびっくりしたのだけれど、これはものすごく「民族問題」の道具立てに似ていると思う。また、ここは別の「国」だ、みたいな言葉にも。こういう「技術」はどこから伝播するものなのだろう。そういう「本性」を我々が持っているということなのか
私は別に「アイヌ」や「ユダヤ人」や「足立区」がすばらしいと言っているのではないし、そもそもそういう抽象的なものに対して何の思い入れもない。ただ、なぜそんな抽象的であるかどうかもわからないものについてあれこれ「分析」したり「評価」したり「決定」したりできるのかと不思議に思う
また、その「分析」や「評価」が自身の目や耳、肌で感じたことなら、それなりに意味のあることだと思う。極端な話、「この私がそう思った」ということに「間違い」はありえない。しかしそういう話を聞いたとか、どうやらそうらしいということが一定の力をもって働くということ
いったいどういう力が、何の目的で、我々の間を徘徊しているのか。我々にどんな目的で、あることをイメージさせ、増幅させ、あるいはさせないのか。そこにはわかりやすい権力者や利益享受者など存在しないのかもしれない。誰が何のためにやっているかもわからず、その一部として「権力」を行使し、され、それが連鎖してひとつの動きや状態をつくっているのかもしれない。
あるいはすべて私のたいへんな誤解か妄想なのかもしれない。しかし