「違和感」

何かを通してしかものを見ることはできないし、考えることもできない。しかもその何かがいかなるものなのかについて直接に語ることはできない。何かにたとえたり、ずれやひずみのようなものを示すことでしかそれについて語ることができない。だから、それについて決して伝えられない相手がたくさんいる。
たとえば、言葉で整理するとまったく同じことをしているようにしか見えない人がいる。けれどそのふたりは全く違うことをしている、といわざるをえないときがある。それをではいったいどう説明することができるのだろう。それを「説明」する言語は、どこにあるのだろう。
「違和感」としか言えないようなぬぐいがたい感覚。しかし私がそれをそう感じるのはなぜなのか、というより、もっといえば、何のためなのか。何を言いたいためなのか。自分を守るためではないのか。自分を正当化するための、「違和感」。
ほとんど同じに見えるものの間の、身震いするぐらいの違い。この私の感覚だけがその根拠なら、そんなものを根拠といえるのかと思う。しかもその違いがあるからといって、だからそれをどうしたいのでもない。私自身がただ決して片方はとらず、片方は無条件に選ぶというだけのことだ。
ただ示すこと、そうあることでしか伝えることはできないことなのだ、と思うことはできる。そしてそれはその通りなのだろう。
たとえば、近代主義は良くなかった、一般的な何かとか、進歩とか、と言っても、でも私たちは近代主義の恩恵を受けている等々について。。。
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しかたないんですよ、そういう時代をへたからこそ、今の私たちがいるんです、今は過去に学び、未来に生きましょう、だってそれ以外にどうしろっていうんですか?植民地だって、進歩するためには必要だったんです。ひどいことだとは思いますよ。いや、全く悲しむべき歴史だ。でも今はずっとましじゃないですか。結局、正しいなんてことはないんです。前より少しでもましならそれをよしとしましょうや。私だってアフリカで井戸掘りしたり、土まで食べましたよ。彼らの喜ぶ顔がみたいからがんばってるんです。お金を集めてくるのはもうすぐサーの称号がもらえるような方ですよ。で、その叔父上というのがまたあの有名なあの方で、その知り合いにあの方がいるっていう、私も一度お目にかかりましたけどね。結局、私たちはおんなじ地球上に住んでいるんです。助け合っているんですよ。みな、兄弟だ。少しでも彼らの役に立ちたい。それが私の喜びだし、生きがいだ。そのためには、私たち自身が自立してやっていける環境が必要なんです。やっと食っていけるくらいで誰がそんなことやりますか。ひとなみの、いや、ひとなみ以上の金を得てしかるべきなんですよ、いいことやってるんだから。その仕組みをつくらなきゃならない。そういうところに無頓着なんだ、あんたたちは。ピューリタンなんだな、ほんとに。いい仕事かどうかはどういう評価をされているかによるんですよ。つまりはお金だ。お金がすべてだ、なんていいませんよ、もちろん。そんなわけない。お金なんてついてくるものだ。でもね、お金は大事だ。お金がなきゃ、人助けだってできないじゃないですか。自分が食うや食わずの生活をしている人がひとを救えますか?無理でしょう。世間はそんな甘くないんだ。理想ばっかり語って、なんにもしないよりは、少しぐらい金にまみれても人の役に立った方が私は立派な生き方だと思うんですけどね。だいたい、お金ぬきに大きなこと、大事を行うことはできんのですよ。だからそんなことをスルーして、いったいその人が本当は何をしたかを清らかな目で見るべきですよ
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と、こんな風に描くと「違和感」が浮かび上がるだろうか