akadowaki2008-12-01

何かが「成立する」ということを、「売買」をモデルに考えてみる。あるいは、「わかる」(教える/教わる)。
たとえば、アートが「成立する」というとき。何かが伝わる、というとき。
ある「本質的」な何ものかが「成立」に先立って在って、まだ見えていないそれが誰かの手によって見えるようになる、というのではなくて、何かがそれとして認められたときにはじめて、そしてそれ以降にやっと、それとして存在しはじめるようになる、というようなあり方をしているのではないか。
伝えることに先行して伝えたい何かが存在し、それが伝わった(ような気がした)り、誤解されたり、ということがあるのではなくて、「伝えたい何か」なるものの存在は幻想で、いつもそれを伝え終えたときにはじめてそれが「伝えたい何か」として成立するのであって、例えば「どうしていつも伝えたいことは間違って伝わるんだろう」という人にとって、その「伝えたいこと」というのは実は(本人にとっても)本当には認識されていない、存在していないのではないか。「伝えたい何か」というのはいわば常に後づけ的にそれとして認められるものであって、伝えることに先行しては存在しないのではないか。
「伝えたい何か」が当たり前に存在するような気がするのは、ある商品が日常的に売買されるようになり、それが初めて売りにだされた日には本当に売れるかどうかわからなかったのに、一度売れるようになれば、毎回「本当に売れるだろうか」などと考えることもなくなりように、「伝わった」という記憶や体験が日常的にあるからではないだろうか。
そしてアートは常に、毎回、本当に成立するだろうかという不安とともにあるようなもののことではないだろうか。