この私、自由であるということ

この3か月ほど、本当に目まぐるしい日々で、おそらくそれは今から思えば「戻った」ということなのだろうけれど、この5年ほどの間、私が考えてきたことに「終止符」のようなものを打った期間であったと思う。それはまさに周到に用意されたという言葉がふさわしく、偶然ではありえないような仕方で私の思考の向きを変えてしまった。私は今、幸せだと言うことができる。
私がこの5年ほどの間に思っていたのは、「この私」という感覚、そして「自由であるということ」についてだったように思う。
「この私」というのは、私はこの私以外の何ものでもありえないということについての、その「偶然性」についての感覚で、しかし今思えばそれは「この私」というよりは「偶然」ということへの感覚で、例えば「偶然なんてありません。すべては必然なのです」的なあまりに誤解に満ちた言い方では拾いきれない状況に対しての私の感覚だったのだと思う。私は私という肉体/精神が混然一体となった存在の中で、「偶然」という状況についてそれを言い表そう、言い当てようとしていたのだと思う。そしてそれはやはり、先達の言葉を借りれば、語らないことによってしか語りえないのだと思う。
「自由であるということ」について、私は自分が何ものかに守られているという感覚、私はどんなものでもありうるし、どんなことにあっても不幸であることがないという感覚を常々もっていて、しかしそれをかなり誤った仕方で表現しようとしていたのだろうと思う。とても誤解をうむ言い方ではあるけれど、私はひとを殺めることもできる。しかしそうはしない。けれどもそれは可能であるし、そうしないのは社会がそう要請するからではない、ということを、私は考えていたのだと思う。そして私が人を殺そうと殺すまいと、世界にとっては問題ではない、なぜなら私があらゆるものから守られているように、世界は私からあらゆる方法で守られているから。
私はいくらか、先へ進むことができたのだろうか。