「心の杖として鏡として」

実によくできたドキュメンタリーだった。が、ここでは映画の前に聞いたトークセッションについて。
トークセッションは、精神病院で40年にわたり美術を教えている安彦講平氏と、安彦氏に強く共感し、茨城の院長を務める病院に安彦氏を呼んで造形教室を開いている的場正樹氏、そして司会として東北生活文化大の杉林英彦氏によるもので、的場氏による日本における精神病院の歴史と現状解説に始まり、安彦氏の自らの生い立ちと主宰する造形教室を開くまでのいきさつや、精神病とアートについての考察、そして杉林氏の質問にこたえるという形式での安彦氏と的場氏の「精神病」をめぐる社会のあり方やなぜアートなのかといった意見交換、という流れで進んだ。
中でも私が印象に残ったのは、「自らのあり方を問われない精神病院というあり方」という的場氏の問題提起で、すべてがそういう病院ではないと断った上で、患者を治療やマネジメントといったひとつの目標達成のため存在として対象化してしまい、治療する側・援助する側とされる側という硬直した関係性の中で、常に対象化された側だけが問題として問いただされ、逆に対象とする側については何ひとつ問われないあり方の不自然さ、異常さについてだった。そうした姿勢に対し、的場氏は何が本来的に問われていることなのか、と問う。それは、障害があるとかないとかいうこととは関わりなく、いかに生きるかということなのではないのだろうか、ただいかに生きるかということの前でのみ、向き合うべきではないか、と。
そしてそのために、ひとりの人間としての全体性を恢復(かいふく)することが必要であり、それこそが「癒し」なのだ、という点で、氏の視線は安彦氏の営みとひとつになる。
安彦氏はすでに「病」が何らかの弱さや欠落だとすら考えていないという。それは時代や環境に対し、鋭敏すぎるがゆえに背負うことになったひとつの感性であり、時代を照らし出す「光」であり、失われてはならないものですらあるという。そして「癒し=healing」がギリシア語の「ホロス=全体」に由来することから、総体としての把握こそがすべての基本であると訴える。
私はこの総体としての把握(という言い方を安彦氏がしたわけではないが)という考え方、「ホロス=全体」=「癒し」という考え方に強く共鳴した。何かものが考えられるような気がする。そしてむろんそれが、思惟という部分ではなく、私という全体性において把握される何ものかにつながっていくといいなと思う。そのようなものとして考えたい。あらゆる私にまつわることを。