Switchman「名前展」

結城愛「佐藤恵」

もう先月の話ですが、長野の中学校で行われた「とがびプロジェクト」のおり、長野市まで足をのばし、「ながのアート万博」も見学してきました。そこで見た長野在住のアーティスト宮沢真さんと結城愛さんによるアート・ユニットSwaitchmanが企画した「名前展」がとても気に入り、あれこれ考えていたのですが、つい最近、禅寺でやるアートのプランを考えていて、道元の『正法眼蔵』というのを読んでみようと手にとったところ、偶然「三界唯心」という章に次のような話を見つけました。
玄沙院宗一大師が地蔵院真応大師に「三界唯心」をどう理解しているかたずねると、逆に「和尚はこれを何と呼ばれるか」ときかれ、指されたものを「椅子」とこたえると、「和尚は三界唯心を理解していない」とか言われたので「(じゃあ)竹木と呼ぶが、あなたは何と呼ぶのですか」と切り返すと、「私もそう呼びましょう」「いやぁ、だれもわかっておりませんなぁ」とかいう話で、道元はこれについて、「三界唯心を理解しているとしてもさらに三界唯心を理解していないことを参究すべきである」と述べ、さらに「理解でも府理解でもない三界唯心が存在する」ことを指摘しています。
ところでSwitchmanの「名前展」で配布されていたしおりは、こんな風にはじまります。「世界中のあらゆる物に名前がある。というより、名前こそが私たちの認識の限界なのだろうか? 名前の無い物に出会ったとき、私たちはその物に名前をつける。そのようにして私たちは、私たちが認識する世界を広げてきた。だから、やっぱり、世界中のあらゆる物に名前があるのだ」
三界唯心についてのやりとりのエピソードは、「椅子」という名前を単なる名前にしておくことなく、「竹木」として見ることで、新たな視点を切り出していく姿を描き出しています。それは例えば「絵画」と呼ばれ、そのように認識されていたものを、「キャンバスと絵具」として見ることで、新たな視点や価値を切り拓いてきたモダン・アートの姿勢に重なるものでしょうし、またさらには「芸術」や「アート」という名前で呼ばれ、そのように認識されてきたものを、「そうでない何か」へと転化していく現代アートの切り口や原動力と同質のものだと思います。そしてそうした、「もの→名前→価値→もの(→名前→価値→…)」というスパイラルについていどんだのが、Switchmanの「名前展」ではないかと思います。
特に注目したいのが、戸倉上山田中学校で展示された「佐藤恵」と呼ばれる作品です。これは中学校の生徒たちとともにさまざまなグッズからなる「佐藤恵」なるブランドをつくり、教室のひとつにインスタレーションしたもので、「佐藤恵」は現在日本で最も多い女性の名前とのこと。制作された「グッズ」(グッズであるにもかかわらず一点ものであるところも意味深ですが)は、入口に人型に切り抜かれたのれん(押して入れない)と、くつ底だけではけないスリッパ。教室内に入ると、天井からつるされた底のあいたバッグに、椅子の上にはでこぼこしていて座れないクッション。ランチョンマットは四角い枠のみで食器をテーブルにじかに置くことになり、ティッシュ箱はぺしゃんこなのでティッシュを入れられず、窓からさがるカーテンは、高さは十分なものの、幅が5センチほどしかないので窓を覆う役目をまったく果たしていない。そういった一群の作品が、「佐藤恵」という「名前」で呼ばれている、というものです。グッズのデザインや完成度も高く、「もの」として手放しに評価している人も何人か見受けました(やはりこういうところが大切だと思います)。
この作品には、上記の三界唯心をめぐる視点の展開が、スムーズに行われないようなシステムがあえて導入されているように思います。それはもちろん、道具としてのそれに反するようなあり方で、先の和尚さんたちは椅子を「竹木」と単純に言い換えることができたにもかかわらず、ここでは「カーテン」を「布」と言い換える前に、まず「カーテン」の前で立ち止まることを余儀なくされてしまいます。そもそもこれは何なのか? つまり、「椅子→竹木」と進むのではなく、「椅子」以前へと戻すような戦略、つまり実は「椅子→竹木」の前段階として、「何か→椅子→竹木」となるような「何か→椅子」の部分がいわば地下に隠されていて、われわれはそれを無視して一挙に「何か」を「椅子」ととらえていること、いわばそのプロセスを逆戻りさせるような思考を強いる装置が、作品として示されているのではないかと思います。むろんそこには「ではそもそも」といったはじまりとか、理想形としての椅子やカーテンが想定されていたり、そうしたものをさぐりたいという意図があるのではないでしょう。いつも途中からの参入者としてしかこの世界に現れ得ないわれわれという存在についての疑問やおどろき、興味がその中心にあるのではないでしょうか。つまり、私が「私」になると同時に、椅子は「椅子」になり、カーテンは「カーテン」になったのです。その存在や意味、価値等々を疑いうるのも、私が「私」だから、あるいは「私」になったからです(私の上の説明の「→」も、そうした意味では後づけ的な説明のための比喩のようなもので、実際に進んだり逆戻りしたりするのではないし、そうしたことを言いたいための「→」ではありません)。
道元の「理解でもなく不理解でもない三界唯心」は、そうしたすべてを成立させている条件としての世界、あるいは「私」について示唆したものではないでしょうか。まだまだ途中ですが。