オリエンタリズムと事実の起動

私にとって、すごく前に一度読んだ切りであまりよくおぼえていなけれどエドワード・サイードの『オリエンタリズム』が衝撃的だったのは、それが首尾一貫した主張をもっていないとか、学問的な基礎資料の扱いが粗雑だとか、帝国主義の歴史について恣意的で誤った見解をもっているとか、そういったことを軽く超えて(もちろんそういうのも大事なのだろうが)、私や私たちが他人や他者についていだくイメージはとてつもなく身勝手で調子のいいものであり、しかしそうしたイメージはいだかれた本人たちにとって迷惑だったり抑圧的であったりする一方で、それをうまく利用したり、そこから新たな何ものかが生まれてくる契機にもなるものであり、とりあえず事実そのものにふれることなどはありはしないという了解が、とてもわかりやすい例とともに語られることで、ときにとんでもなく増幅されたり、価値あるものとして蓄積されたりするのだというリアリティを、私がそれまで読んだどんなものより首尾よく描きだしているということだったと思う。
たとえば「太陽のすぐそばまで青く塗ることがないように、幼稚園や小学校の先生方にお願いしたいものである。私たちにとって大事なことは、偏見にとらわれることなく、自然をありのままにみる、あるいは、みられるようにする習慣を養うことである。科学に対する理解力や好奇心は、事実をありのままにみることから育ってゆくのである」(桜井邦朋『自然の中の光と色』1991)といった文章に見られるような、「私たちにとって大事なこと」といった科学の主観性、あるいは「自然をありのままにみる」「事実をありのままにみる」といったフィクションやそれこそ「偏見」を白日のもとで明らかにするような手段としての「オリエンタリズム」。むろんだからといって、同じようにさらにその科学の外に別の視点を「事実」とかいって仮設するのではなくて、太陽を赤く塗り、空を青く塗りつぶすような文化的な決まりごと(これを絵画や芸術の世界では「様式化」と呼ぶ)と同じように、科学をひとつの決まりごとのひとつとして位置付け、それらの中から、その場に応じ、条件に応じて事実を導き出していくこと。そして何よりそれに自覚的であること。つまり、その「事実」の提出に、どういう条件と規則がかかわっていたかを同時に提出できること。それが意味や価値は創造されたものである、という「中立的」な言明に、意味や価値を与える根拠になるものであり、私が「オリエンタリズム」から読んだと(もしかしたら誤読しているかもしれないけれど)思っていることで、そうした並立する、もちろん強弱をもった複数の規則、複数の意味の上をわたり歩くことでしか「事実」は起動しないし、ましてやその外に無をはじめとした何かを求めることなど、実際には何を言っているのかわからないようなたぐいのことだろう。
そしてその意味や価値や物語の過多こそが、「オリエンタリズム」への不安や脅威の源泉であり、言葉の限界の裏返し的な意味での言葉の過剰さへの不安の源であるように思う。しかしどうしてそれを豊かさとすることができないのだろう。問題はそういうことではないか。たとえば意味や価値や物語をつくられたものだと言って無化したつもりになったところで、意味や価値や物語にとってはどうでもいいことだろうし、無化したつもりのその当人はその無化によって何ひとつ踏み出せないどころか、位置を占めることすらできなくなってしまうだろう。私はずっとそんな風に考えてきたと思う。結局私は何ひとつ語ってはいない。