越後しの

午後から、やっと完成した個展の案内(今日の写真参照)をギャラリーから受け取り、いろいろなところをまわって置いてもらう。
宮城県美術館では、越後しのさんの公開制作中の作品がほとんどできあがっていて、以前ほとんどまだできていないときも見ていたので、その時間経過は一種感動的である。植物のようなものが増殖していくようなイメージを描いた平面をずっと制作していて、それが去年あたりから(私にとっては)突然、絵の中からぬけだし、ジャックの豆の木のようにするするとのびてきたような立体へと移行した。今回の作品もその流れにあるもので、平面から立体への移行という空間的な変遷だけでなく、公開制作をすることによって時間的な展開をも作品の中に取り込むことに成功したのではないかと思う。
3/22からの展示で私がやりたいのも、同じように作品に時間を、それも「この私」に対応するような意味で「この時間」を取り込むということだと思う。それは「この私」が表わしえないのと同様、実際には表わしえないけれども、「この私」がほかのたくさんの一人称である私=自分との対比で類推可能であるのと同様にして、共同で制作する時間をもつこと、「同じ時間」を過ごしたということで、それを類推することはできるのではないかということで、しかしあまりにも当たり前のことではある。