町を車で走っていると、すごい中華料理屋が目に入るわけです。道路に看板(中に蛍光灯が入って光っている)が寝かせてあったり。そのすぐ近くにはビルのこっち側だけをすんごい色に塗ったタイ料理やタイマッサージやが入ったビルがある。たぶんああいうのを見ると、「外国人」「治安」「風紀」のようなものに結び付けられ、悪いイメージとしてのリストに入れられていくと思うのですが、私にとってはすごくおもしろいし、好きなんですね。ああ今度行ってみようかなと思うスポットなわけです。同じようなことを昨日、「アサヒアートフェスティバル」のネットワーク会議で聞きました(Ustream中継でですが)
横浜でアートをやっている「ART LAB OVA」が、若葉町でプロジェクトをやる折に、入っていいんだかどうだかわからないタイ料理屋と懇意になった(私も連れて行ってもらって何度か自分でも訪れはまった店なんですが)わけですが、その店がいつの間にか「ちゃんとした」「メニューの出てくる」普通のタイレストランになってしまった、というんですね。
去年の夏に行ったときは、本当にただの近所のたまり場みたいなところだったんですね、もちろんタイ人の。が、ちゃんと料理たのむと出てくるし、いろいろ世話も焼いてくれる。ことわざ攻撃をしてくる子どもとかもいたり、すごくその雰囲気が好きだし、おもしろい。でも「こぎれい」でも「ちゃんとした」お店でもなく、普通の人にはおそらく(確実に)入りくにかったわけです。ところがそれが秋ごろ行ったら「ちゃんとした」店になっている。
ちゃんとしたこぎれいな場所でないといけないと思わせる何か、そういう力、「圧力」が確実に存在して、それが「これが普通だろう」という生活、そういう感覚や「面白さ」、はっとする感じを奪っているように思います。
例えば、いけてない商店街や、なんともダメな過疎地にある湯治場なども事情は同じだと思います。ショッピングモール的観点からいうと商店街は品揃えも値段も卒倒するくらいダメかもしれません。でもそういうことじゃないんですよね。湯治宿もサービスという概念がないんじゃないかと思いますけど、同じくそういう価値ではかってしまっては見落とされてしまうものすごく多くのものを含んだ何かなんですよね。
確かに世の中、サービスが良くて値段が安くて、きれいで安心でけんかも少ないほうがいいように思えますけど、本当にそうなんでしょうか。
本当にこのままいっちゃっていいのか、というところにきていると思うんですね。ものすごくいろいろな生活や感覚が失われていってしまっている。安全安心安いとか何かそういう実際にはすごく暴力的で安全安心どころではないムードで。しかもあとで高くつきそうな気がする