まちはすでにアートであふれている

あんまり聞かなくなったなぁと思っていたのに、最近、塩竈でアートをやっている間にまたよく耳にするのが、「感じたままを感じればいいんですよね」とか「見たままを感じればいい」といった感じの言葉で、アーティスト自身も「それぞれの感じるままに」とか「自然の美しさを美しいと思うように、アートも素直に見て感じてほしい」といったコメントでこたえていると聞くのですが、私はコンテンポラリー・アートという文脈で表現活動を行っている以上、「作品自身が美しさをもっている」といったナイーブな感じはどうなんだろう、と思います。塩竈でのアートで、「まちはすでにアートであふれている」「まちにあるものがすでにアート」ということを私は言っているのですが、もしかしたらそれもそういう風にとらえられているのだろうかと、はっとしました。
何かが美しいとか、アートであると人が感じる感覚は、永久不変の感覚としてその人の内にあるものなどではなく、その人が属する文化的な文脈や権力装置によって組み立てられ、組みなおされていくものだと私は考えています。モノとしての、結果や経験としての美しさやアート作品を提示していくのではなく、それを美やアートとして成り立たせている仕組みや制度について明らかにしていくのが、現代アート、コンテンポラリー・アートと呼ばれるアートの美であり、アートであり、表現手法、戦略なのだと考えています。
だからとても「それぞれの感じたままに」などとは言えないし、第一、「感じたまま」とか「素直に見る」というのがどういう意味なのかわからないというか、そんな風にものを語れるほどナイーブにもロマンチストにもなれない、といった感じです。私には私の意図があるし、それとちがっていたから「間違い」などという単純な世界ではもちろんありませんが、いろいろな見方があっても自ずとそこには優れた見方とそうでもない見方があるわけで、何でもあり(それは何でもなしと同じではないでしょうか)と、どれもが優れているとはイコールではないというか、当たり前のことですが、そこには他者との関係性(「これは何なんですか?」「これはこれこれです」「へぇすごい」「そりゃおかしい!」「じゃあこれは何なんですか」)がなくてはならず、それぞれの見方で見てほしいというのが、そのような関係性を生み出すようなものへと回収されずに、ただ「ではそれぞれの見方ということで、さようなら」ということでは表現手段となり得ないだろうと思います。