個としての表現

akadowaki2006-12-15

個としての表現、表現者としての個という考え方が、ともするとうまいぐあいに利用されているのではないか。
あくまで表現もしくは表現者というのは個であって、それは生活している、あるいは存在している「この私」がまぎれもなく個以外の何ものでもないということと同じく、あまりにも当然のことである。逆に複数者の表現というとき、それは何を言っているのかわからないし、複数の「この私」など理解不能である。
そうではなく、個としての表現以外の、あるいは以前の、もしくはそれを過ぎたところに、他とのかかわりが当然あるわけで、それは問題にしたり議論したりできるし、当然するべきことでもある。
あなたや私が「本当は」何をしたいか、したかったかなどというのは、あなたや私以外にとってはどうでもいいことだったり、計り知れぬことなわけだが、それを伝えたいと思うなら、つまり表現するなら、私やあなたが、私たちやあなたたちになるのは当然のことだし、理解可能なことだ。
だから「誰にでもわかる価値」に「私にしかわからない価値」なるものを対立的に配置して、ある種の状況を導き出そうとしたとして、それはやはりただ単にそういう状況をあえてつくっているだけの話で、確かにそういう問題設定をしたらそういうこたえしか出てこないだろうということなのだろう。
そしてさらに問題なのは、「私にしかわからない価値」は決して真に「私にしかわからない」のではなく、容易にわかってしまう価値だからこそ、「問題」たりうるということで、もしもそれが真に「私にしかわからない価値」であったなら、それは「誰にでもわかる価値」とは決して対立などしえない。